日本人の物語01066【南北朝中期】第五次京都合戦 義詮敗北
大河ドラマ『光る君へ』で刀伊の入寇が詳しく取り上げられていることに感慨を覚えています。この事件が映像化されるのを見られる日がくるとは。
山名時氏・師義父子が幕府を裏切ることとなった経緯は既に述べました。その山名勢が南朝と組んで京を攻撃する計画がいよいよ始まります。
正平8/文和2(1353)年5月7日、山名勢は領国の伯耆国(鳥取県)を発ち、但馬・丹後の軍勢を引き連れて3千騎で京へと攻め上りました。
一方、6月5日、賀名生から京へ攻め上る軍勢が八幡に集結しました。法性寺左兵衛佐、楠木正儀、和田正武、石塔頼房、赤松氏範らです。赤松といえば則祐が北朝方に寝返ってしまいましたが、弟の氏範は今もなお南朝方の武将です。
京にいた北朝軍の面々は、敵との兵力差に不安を感じていました。土岐・佐々木らは
「さっさと近江へ退いて、瀬田(滋賀県大津市)で敵を待ちましょう」
と進言しますが、義詮は
「敵が大軍だからといって、一戦も交えないでどうして聞いただけで逃げ出すことができようか」
と主張し、後光厳天皇を東坂本へ逃がした上で、仁木・細川・土岐・佐々木の3千騎を鹿ヶ谷に配置して敵を迎え討ちます。
鹿ヶ谷という場所は、前に鴨川があって後ろに東山がそびえています。「背水の陣」といった印象ですが、実際には東山を越えるルートは確保されており、兵たちは
「いざとなれば後ろに逃げて休めばよい」
と安易に考えていました。
6月9日早朝。南朝方の3千騎が八条、九条から押し寄せてきました。山名時氏率いる山名勢5千騎も西七条から攻撃してきます。
最初にぶつかったのは、北朝方・六角氏頼と南朝方・山名家執事の小林右京亮(こばやしうきょうのすけ)です。六角勢はかなわぬとみて、神楽岡へ引き上げていきました。
緒戦に勝利すると、その後決着がつくのはあっという間のことでした。南朝・山名勢の活躍により、北朝方の兵は次々と逃亡していきます。義詮も、細川清氏も、とりあえず後光厳天皇と合流して再起を図ろうということで、東坂本へと落ち延びていきました。
太平記は、この戦いについて
・南朝方・赤松氏範が北朝方・長山遠江守(ながやまとおとうみのかみ)を討とうとしたが逃げられてしまった話
・高師直の次男に当たる高師詮(こうのもろあきら:?~1353)が、安保直実と荻野朝忠から「とても逃げられません。ご自害ください」と薦められ自害した話
・南朝方の兵たちが師詮の首を取ろうと必死に争っている間に、安保直実と荻野朝忠は逃げ延びた話
などを紹介しています。将軍首を囮にして逃げ出すとはあまりにひどい話ですね。
