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日本人の物語01630【室町/西国/六角征伐】清洲織田と岩倉織田

清洲織田と岩倉織田に分裂していますが、織田信長はどちらから出るのかというと、清洲織田家の3つある分家の中の最も格下の家から出ます。

 岩倉城を本拠とする織田敏広は、文明10(1478)年10月12日に清洲城の敏定と戦い敗北しました。しかし懲りない敏広は、さらに12月4日にも清洲城を攻撃します。
 この清洲城攻撃に当たって、敏広はなんと斎藤妙椿の援軍を得ました。妙椿は9月時点では幕府の命を受けて敏定の味方をしていたのに、今回は逆に敏広の味方となったのです。やはり応仁の乱が終結したとはいえ、妙椿は引き続き「心は西軍」であり、東軍の敏定の味方をするのは気乗りしなかったのでしょう。
 この戦いで清洲城は炎上し、織田敏定は右目に矢を受ける重傷を負いました。敏定は死を覚悟して最後の突撃をしようとしましたが、そこに幕府からの停戦命令が届き、九死に一生を得ることとなります。敏定はそのまま山田庄(岐阜県郡上市)に敗走していきました。
 文明11(1479)年1月19日。織田大和守家(敏定)と織田伊勢守家(敏広)は、斎藤妙椿の仲介で和睦することとなりました。和睦の条件は、尾張の分割統治でした。
 具体的な配分は次のとおりです。
大和守家(清洲城): 尾張の南東部(中島郡と海東郡山田郡の一部)
伊勢守家(岩倉城): それ以外
 ただし、大和守家の支配は後に愛知郡、知多郡、海東郡、海西郡の下四郡にも拡大していきます。
 この二つの織田家は「清洲織田家」「岩倉織田家」などと呼ばれるようになりました。しかし一時的な妥協を強いられた彼らがその後も仲良くしていられるわけがなく、これ以降数十年に渡って領土争いを繰り広げます。その中で、清洲織田家の庶流である3つの家が「清洲三奉行」などと呼ばれて力をつけるようになってきました。
・織田因幡守家: 本家と同じく清洲城が拠点
・織田藤左衛門家: 小田井城(愛知県清須市)が拠点
・織田弾正忠家: 勝幡城(愛知県愛西市)が拠点
 さらにこの後、清洲織田家の中でも、主家と三奉行の間が険悪になってしまい、清洲織田、岩倉織田、清洲三奉行を合わせた5つの織田家が離合集散を繰り返して争い続けるのですが、やがて織田弾正忠家からあの有名な織田信長が登場し、尾張を統一し、続いて天下統一へと動いていきます。
 なお、尾張守護は引き続き斯波家が世襲していくのですが、義敏以降、その影響力は弱まるばかりでした。斯波家は織田家の傀儡となり下がり、戦国時代を乗り切れずに断絶することとなるのです。

信長といい秀吉といい家康といい、割と低い身分層から天下人が出るものなんですね。

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