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日本人の物語00671【鎌倉中期】時頼死す

 死期が迫る時頼は、嫡子が時宗であることを内外に示すべく、様々な工夫を凝らしました。というのも、時宗には年上の庶子(側室の子)がいたのです。
 嫡子とは別に庶長子がいる場合、とかく家督争いが起こりやすいものです。庶長子は嫡子よりも父の仕事ぶりを間近で見てきたという自負があり、自分の方が良い後継者になれると考えてしまうものです。
 この時宗の兄は北条時輔(ほうじょうときすけ:1248~1272)といいます。この名前も時頼なりに家督争いを避けるための配慮でした。「輔」とは「輔(たす)ける」と読める字であり、自分が権力の座に就くのではなくあくまでトップを支える側の人間なのだと自覚させるための名でした。
 文応元(1260)年6月には鶴岡八幡宮で放生会(ほうじょうえ:捕獲した鳥獣を野に放す宗教儀式)が行われましたが、供をする御家人の名簿上、時宗は「布衣供奉」という役職が与えられていたのに対し、時輔は随兵の一人とされていました。これも身分差をはっきりさせておくための配慮でしょう。
 弘長元(1261)年4月には小笠懸が行われましたが、なかなか上手な者がおらず、場が盛り下がっていました。時頼は
「時宗を呼べ」
と命じます。やって来た時宗が見事に的を射抜き、大いに盛り上がる中、時頼は
「時宗こそ我が家を継ぐべき者だ」
と絶賛しました。時宗に晴れ舞台を与え、満座の中で後継者指名をしたのです。
 こうして、後継が時宗であることをしっかりと示した上で、弘長3(1263)年11月22日に時頼は36歳で死去しました。嫡子時宗はこのとき12歳、庶長子時輔は15歳でした。
 さて、時頼が死んだことで名実ともに執権・赤橋長時が最高権力者として君臨することとなったのですが、長時の治世はたった1年で終了しました。というのも、この頃から病気がちだった長時は、文永元(1264)年8月21日に死去してしまうのです。
 未だ13歳の時宗を執権に据えるわけにはいきません。そこで、時宗のもう一人の後見役であった北条政村が7代執権に就任しました。
 政村は義時の四男で、伊賀氏の変で担ぎ上げられた過去を持ちます。このとき59歳。一時は反逆者の汚名を着せられた政村が、こうして復権して執権職に就くとは予想外だったでしょう。政村は北条一族の長老として時頼からも一目置かれていましたが、温和な性格で、自身の子孫に執権職を継がせる考えは毛頭なく、あくまで時宗が成長するまでの中継ぎの役割を全うすることとなります。

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