日本人の物語00142【人代後期】23代顕宗天皇
清寧天皇が崩御し、皇統が途絶えてしまうという大事件が起きたわけですが、ここで皇室を救う人物が現れます。
播磨国司に就任した伊予来目部小楯(いよのくめべおだて)という人物がいました。「伊予」という苗字ですから愛媛県出身なのでしょう。彼は、播磨国縮見(しじみ:兵庫県三木市)に住む忍海部細目という人物の、新築祝いに訪れました。忍海部細目という人物は初登場ではないのですが、ご記憶の方はいらっしゃるでしょうか。
宴会が盛り上がってくる中、各自が順番に踊ることになりました。
その家で火を焚いていた2人の少年に踊りをさせたところ、兄弟は順番を譲り合って、結局先に兄が踊り、次に弟が踊りました。
弟は踊りながら、
「すめらみこと(天皇)の子、市辺押磐皇子の子が私である」
と歌い上げました。
これを聞いた伊予来目部小楯は泣いて喜びました。この兄弟こそが、雄略天皇の魔の手から辛くも逃れ、馬飼い・牛飼いとして暮らしていた市辺押磐皇子の遺児、億計王と弘計王だったのです。
ちなみに、古事記では清寧天皇の死後に億計王・弘計王の兄弟が発見されたことになっている一方、日本書紀では清寧天皇存命中に発見されたことになっていて、ストーリーが若干異なります。
そういえば、日本書紀に記された生没年によるとこのとき億計王・弘計王の兄弟は36歳と35歳ですので、これを
「火を焚いていた少年」(古事記の原文では「火焼きの少子」)
と表現するのはおかしな気がします。
さて、皇位を継承できる男子が2人見つかったわけで、飯豊皇女はひどく喜びました。飯豊皇女にとっては、生き別れた弟たちですから、喜びもひとしおだったでしょう。
飯豊皇女は、二人に「さっそく即位してもらいたい」と言いました。ところが、億計王と弘計王は皇位を譲り合います。
譲り合いの中で、兄の億計王が弟の弘計王に
「お前が名乗らなかったら皇位を継ぐことにはならなかった。お前が先に即位しなさい」
と述べたため、顕宗天皇元(485)年1月1日、弟の弘計王が先に即位することとなりました。顕宗天皇です。
