日本人の物語00619【鎌倉前期】実朝の人物像
さて、これまで実朝の人物像については、
・和歌や蹴鞠といった公家文化への憧れが強く、鎌倉武士らしい武芸には関心を示さなかった。実権は一切持たされず、前半生においては北条時政の、後半生においては北条政子・義時姉弟の言いなりであった。
・政治的権力を手放したいとの意向を持っており、唐に渡ろうとしたのも現実逃避願望の発露である。
・実朝が自らの血筋に将軍位を継がせようという意欲すら持たない無気力な人物だったので、北条家はこれ幸いと、後鳥羽上皇の子を将軍に推戴しようとした。
といった具合に解釈されてきました。
しかしながら近年、実朝は卓越した政治手腕で北条に対抗しようとした人物だった可能性が指摘されています。
例えば、承元3(1209)年11月14日、義時が家人の中で功績の顕著だった者を
「侍に準ずる身分に取り立てたい」
と相談して来ましたが、実朝はこれを許さず、
「身分秩序を乱すことは不穏な混乱を招くこととなる」
と言ってこれを拒否したと記録されています。この1点からしても、実朝は単なる北条氏の傀儡ではなかったことが理解できます。
ちなみに、実朝の死後に北条氏の家人たちは「御内人」として高い格を与えられ、政治に介入して大きな混乱をもたらすこととなります。鎌倉後期に登場する平頼綱や長崎高資といった人物たちがいかに政権を混乱させたか、また後で触れる機会があろうかと思いますが、実朝の慧眼には目を見張るばかりです。
さて、実朝が卓越した政治家であったとすると、これまでの通説も大きく見直す必要が出てきます。
唐船を建造したことも、「宋に渡りたい」という現実逃避のためではなく、「宋に使節を派遣して貿易を申し込もうとしたのではないか」とも考えられます。そうだとしたら、平清盛と同様の貿易立国を目指したのかもしれないわけです。
さらに、宮将軍擁立工作についても、実朝自身が幕府の存続のために自らの血筋を放棄して皇族将軍を所望したとも解釈できます。
確かに、実朝が北条家の傀儡に甘んじるような人物であれば、むしろ暗殺される必要はなかったわけですから、近年注目されている新たな実朝像には一定の説得力がありそうですね。
