日本人の物語01450【室町/西国/大乱前夜】六角兄弟の抗争
ここから地域別の話になります。一時的に編年体ではなくなりますが、ご容赦ください。
文安元(1444)年4月7日には、麹座と酒屋、その背後にいる北野社と延暦寺の対立が頂点に達し、延暦寺が西塔釈迦堂に立て籠もり強訴を行いました。これを「文安の麹騒動」といいます。管領・畠山持国は4月13日に北野社に鎮圧軍を派遣し、どうにか事態を収束させました。
これ以降、持国は各国の内紛に次々と介入しています。ざっと概観すると以下のとおりです。
①近江国における六角時綱・久頼兄弟の争いについて、久頼を支持
②加賀国における富樫教家・泰高兄弟の争いについて、教家を支持
③美濃国における斎藤氏と富島氏の争いについて、斎藤氏を支持
④播磨国における山名宗全と赤松満政の争いについて、山名宗全を支持
⑤大和国における旧南朝方(越智氏・豊田氏・箸尾氏)と旧北朝方(筒井氏)の争いについて、旧南朝方を支持
⑥肥前国における千葉胤鎮・胤紹兄弟の争いについて、胤鎮を支持
どの介入についても、持国は「義教が冷遇した者を助ける」という方針で一貫しています。それほどに持国は義教を恨んでいたのでしょう。
これまでは時系列順に歴史を語ってきましたが、ここでは話を分かりやすくするために地域順に見ていきましょう。①~⑥を順に語っていきます。
【①近江国における六角時綱・久頼兄弟の争い】
近江は六角満綱と京極持清(きょうごくもちきよ:1407~1470)が半国ずつ治めていました。
その六角満綱には男子が3人おり、上から持綱(もちつな:?~1445)・時綱(ときつな:?~1446)・久頼(ひさより:?~1456)の三兄弟でした。満綱は既に隠居し、長男持綱が当主を務めていましたが、どうも振る舞いに問題があって家臣の信頼を失っていたようです。
文安元(1444)年7月。六角氏の被官らが一揆を起こして長男持綱を廃し、次男時綱を擁立しました。ここから長男持綱・次男時綱間の武力闘争が始まります。
文安2(1445)年1月23日。時綱を擁立した家臣たちが、持綱とその父満綱を攻め、自害に追い込みました。一見これで内紛が終わったかに見えましたが、持国率いる幕府はこのクーデターを認めず、喧嘩両成敗ということで三男久頼に家督を継がせるよう指示しました。
こうして近江国の内紛は、三男久頼派と次男時綱派の争いへと変貌していきました。
文安3(1446)年8月。幕府は六角久頼と京極持清に対し、時綱を討ち取るよう命令しました。時綱は近江国飯高山(滋賀県東近江市)で蜂起しましたが、9月5日に久頼・持清の軍勢に攻め込まれ、家臣と共に自害しました。近江情勢は今のところ持国の思惑通りに進んでいます。
滋賀県の地名については、19市町村中17市町村が既に登場しています。残る2個は一体いつ登場させられるか、微妙なところです。
