日本人の物語00434【平安後期】嘉応の強訴 平家の派兵拒否
仁安4(1169)年6月17日。後白河上皇は出家して法皇となりました。以降は後白河法皇と称します。
この年、平家の権勢を象徴する事件がありました。「嘉応の強訴(かおうのごうそ)」と呼ばれる事件です。
嘉応元(1169)年12月23日、比叡山延暦寺の僧兵たちが、尾張国知行国主・藤原成親の配流を求めて強訴を起こしました。
この時期、荘園領主が荘園の特権をめぐって国司など中央から派遣された役人と衝突を起こす事件が急増していました。荘園領主たちは普段から有力寺院に土地を寄進して関係を構築していますから、こうした事件はすぐに有力寺院と知行国主との対決に発展していくわけです。
このとき、藤原成親は権中納言の地位にあり、後白河法皇の信任厚い人物でした。当然、朝廷側は延暦寺の要求を拒否することに決しましたが、僧兵たちもなかなか収まらず、後白河法皇は公卿たちを召集して対策を協議させました。御所の警備が強化され、平家の兵らが後白河法皇の住む法住寺殿を取り囲んで守りを固めました。
ところが、比叡山の僧兵たちは予想に反して、後白河法皇のいる法住寺殿ではなく、高倉天皇の住む内裏に向かっていきました。当時、治天の君はあくまで後白河法皇ですから、強訴は後白河法皇に対して行うべきものなのに、僧兵らはあえて8歳の高倉天皇のもとに集まってデモを繰り広げたのです。その方が後白河法皇が嫌がると予想したのでしょう。
事実、後白河法皇は慌てて近臣を派遣して、僧兵たちに
「内裏に集まって幼主を驚かせ奉るのは不当であり、院御所に来れば要求を聞く」
と再三に渡って伝えました。しかし僧兵たちは
「幼主であっても内裏に参って天皇に訴え、勅定を承るのが先例・恒例である」
と言ってこれを拒絶し、説得に耳を貸しませんでした。
後白河法皇は怒って、平家の兵らを派遣して僧兵らを追い払うよう指示しましたが、なんと平家はこれを拒否しました。このとき清盛は福原に住んでおり、平家の棟梁は重盛でしたが、実権は清盛に握られていたのでしょう。清盛の承認なしに重盛は一兵たりとも動かすことができず、なんと後白河法皇の命令は明確に拒絶されることとなりました。前代未聞の珍事です。
12月24日、後白河法皇はやむを得ず、僧兵たちのいうとおりに藤原成親の解官と備中国への配流を決めました。僧兵らは歓喜して比叡山へと戻っていきました。
こうして、騒動は一旦収まったかのように見えました。
