日本人の物語01483【室町/西国/大乱前夜】六角高頼と六角政堯
応仁の乱の一番ややこしいところは、「どの氏が東軍でどの氏が西軍」という分かりやすい構図にならず、同じ一族の中で東軍と西軍に分かれてしまうところです。
ここで、長らく言及していなかった近江情勢について見ていきましょう。
これまでの近江情勢を復習すると、
①近江は六角満綱と京極持清が半国ずつ治めていた。
②六角満綱の子である持綱・時綱・久頼の三兄弟のうち、時綱派が持綱派を滅ぼした。
③幕府は時綱の家督相続を認めず、久頼が継承するよう指示するとともに、久頼と京極持清に命令して時綱を討ち取らせた。
といったところです。
つまり六角久頼は京極持清と協力して兄時綱を討ったわけですが、共通の敵を失うと対立が始まるものです。康正2(1456)年10月2日に久頼は死去しましたが、一説によると京極持清から圧力を受けての憤死だったといいます。詳細不明ですが、持清から理不尽な要求を突きつけられて抗議のため自害したといったところでしょう。久頼派は京極家を恨むようになります。
久頼の子・六角高頼(ろっかくたかより:?~1520)がまだ幼かったため、次男時綱の子・政堯(まさたか:?~1471)が後見人となりました。ちなみに高頼はまだ元服前で「亀寿丸」と名乗っており、その後「行高」「高頼」と順次名を変えていくのですが、ややこしいので最初から「高頼」と表記します。
後見人ということは、即ち高頼が成長するまで当主を代行するといった意味合いですが、この人事には明らかに無理がありました。というのも、政堯にとって高頼は「父を討った仇の子」であり、怨嗟の対象です。まともに後見が成り立つはずがありません。
予想通り、長禄2(1458)年6月になると高頼は近江から追放され、政堯が当主となりました。幕府の了解を得た上でのクーデターだったらしく、政堯が幕府に必死に働きかけた結果でしょう。追放された高頼一派は、復権のチャンスを窺います。
そのチャンスは意外に早く訪れました。長禄4(1460)年7月、六角政堯は何らかのトラブルで、守護代・伊庭満隆(いばみつたか)の子を殺害する事件を起こしたのです。原因不明ですが、これに激怒した将軍義政によって政堯は追放され、家督は高頼に戻りました。政堯は潜伏し、京極持清と組んで密かに高頼の命をつけ狙うようになります。
実にややこしいことになりました。かつては久頼と京極持清が協力して時綱を討ち取ったのに、今度は時綱の子・政堯が京極持清と協力して、久頼の子・高頼を討とうとしているのです。京極持清は六角家への嫌がらせができるなら誰とでも組むのでしょう。
こうして「六角高頼VS京極持清・六角政堯」という構図が出来上がりました。今後、応仁の乱が始まると、高頼は西軍に、持清・政堯は東軍に身を投じることとなります。
系図を付けた方が良いですよね。しかし、なかなか作成する時間がありません。
