日本人の物語01228【南北朝最末期】明徳の乱 小林義繁の諫言
読み直して思ったんですけど、小林義繁が初登場するのは1391年の12月29日なのに、生没年が「?~1391」と表示されてるのって、相当なネタバレですよね。
元中8/明徳2(1391)年12月29日。山名氏清は側近の小林義繁(こばやしよししげ:?~1391)を呼び、
「我が山名家は新田一族の流れを組む名門である。天下を取ることを望んだとしても理由のないことではあるまい。天下を取った暁には、そなたが執事となれ」
と述べ、南朝からもらった錦の御旗を手渡しました。
しかし小林義繁は涙にむせびながら、
「以前、当家が将軍の敵となったことがありました。後悔して将軍の元に参じると、将軍はこの罪を許して11ヶ国もの守護職を与えてくれたのです。このような恩を忘れて将軍に弓を引いたら、きっと神仏の御加護は受けられないでしょう。他の大名たちも、誰が将軍を裏切って我々に味方してくれるでしょうか。私は今回の合戦で真っ先に戦死するつもりですので、執事の職は誰か別の者に申し付けてください」
と述べ、退出してしまいました。
困った氏清は、弟で養子の高義(たかよし:?~1391)を呼び、
「小林がいち早く戦死しようと考えているようだ。明日の合戦では、小林と共に戦っていろいろと助けてやってほしい」
と述べました。高義もまた内心では小林義繁の話に感じ入っていたものの、多くは語らず
「かしこまりました」
とだけ述べて退出しました。高義と小林義繁は同じ思いをもって合戦に臨み、真っ先に死ぬこととなります。
この日の夜、山名勢は南北同時に京への侵攻作戦を開始しました。
まず満幸軍が丹波篠村(京都府亀岡市)から峰の堂を経て桂川上流へ進み、二手に分かれて二条と一条を目指します。一方、氏清軍は南方の淀(京都府八幡市)から進んで桂川に浮き橋をかけて渡り、鴨川沿いを北上する隊、東洞院通りを北上する隊、四条通りを東に進む隊の三隊に分かれました。
一方、幕府軍は内野に陣を布き、一色詮範、斯波義重、京極高詮らが内野の北、西、南を囲い込むように配置しました。将軍義満自身は御馬廻を率いて内野の東側にある堀川の一色邸に入っています。さらに細川頼之、畠山基国、大内義弘らがその外側で待機しています。
京は地理的に守りにくい地形であり、京で敵を迎え討って撃退できたためしはありません。まして内野とは鎌倉幕府滅亡の際に丹波篠村から上洛してきた足利高氏が六波羅探題軍を破った場所(00785回参照)であり、実に不吉な場所です。義満はこうした過去の例を全く気にしない人物のようです。
