日本人の物語01256【室町/義満期】応永の乱 戦闘開始
明徳の乱と違って、応永の乱は義満にとって「絶対に負けない」くらい余裕の戦いだったようです。
義弘に呼応して、応永6(1399)年11月半ばには全国で次々と兵を起こす動きがありました。
まず美濃では、土岐詮直が長森城(岐阜県岐阜市)で挙兵しました。詮直は土岐康行の乱で挙兵した一味であり、敗北により職を失って悶々と過ごしていたため、この機に幕府を滅ぼそうとしたのでしょう。従兄に当たる土岐頼益は京にいましたが、慌てて帰国してこれを鎮圧しました。
次に丹波では、山名氏清の嫡男・宮田時清(みやたとききよ)が挙兵して丹波追分宿(京都府京丹波町)まで進出しましたが、11月18日、山名時熙らに鎮圧されました。
さらに近江では、京極高詮の弟・五郎左衛門(ごろうざえもん)が挙兵しました。恐らく高詮が全ての財を独占している現状に不満を持ったのでしょう。五郎左衛門は甲良荘(滋賀県甲良町)に討ち入り、瀬田(滋賀県大津市)まで進みましたが園城寺の衆徒にはばまれて守山(滋賀県守山市)への撤退を余儀なくされました。その後、和泉にいた高詮がこれを鎮圧しました。
結局、義弘の味方は全て短期間で鎮圧されてしまった上、義弘の期待に反して鎌倉府も延暦寺も興福寺も味方にはなりませんでした。
11月21日。上杉憲定の反対に遭って出兵が遅れていた足利満兼軍がようやく鎌倉を出発しました。これが義弘に味方して幕府を転覆するための軍なのか、はたまた幕府に味方して義弘を鎮圧するための軍なのか、歴史家の間でも意見が割れています。その足の進みは異常なほどに遅く、1ヶ月経っても京に到着せず、後述するように上洛の途上で義弘敗死の報を受けて引き返すこととなります。本気で出兵したとは思えません。
一方、義弘は堺城の要塞化を進めていました。千を超える櫓があったといいますから、相当なものでしょう。しかし義弘は思ったほど味方が集まらないことを知り、この時点で死を覚悟したようです。国許にいた弟・盛見に対して形見の品を送り、今生の思い出にとばかり、堺城の中で昼は連歌会や和歌会を催し、夜は酒宴に明け暮れました。
11月29日。幕府軍が堺の要塞への総攻撃を開始しました。畠山基国と、その長男である畠山満家(はたけやまみついえ:1372~1433)、山名時熙らが攻撃しましたが、大内軍は多数の死傷者を出しながらもどうにか持ちこたえ、城は落ちません。
将軍義満は持久戦に切り替え、じっくりと攻めることとしました。周囲に多数の櫓を築き、あらゆる方面を包囲したのです。まさに王者の余裕です。
