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日本人の物語01582【室町/西国/応仁の乱】新将軍代・日野勝光

公家が幕府を事実上乗っ取るという珍しい話です。

 文明6(1474)年4月23日、東軍に帰順したばかりの山名政豊軍はかつての味方・畠山義就軍と衝突し、7月26日には北野千本(京都市上京区)で大内政弘と交戦して見事これを撃退しました。これが京での最後の戦いとなり、乱の主戦場は地方へ移っていきます。
 当初から東軍についていた山名是豊は、翌年6月に備後国甲山城(広島県庄原市)を襲撃したものの、安芸から西軍・毛利豊元(もうりとよもと)が攻め込んでくると不利と見て石見に逃亡しました。その後、東軍・山名政豊が毛利豊元を追い出して備後国を統治下に置きました。
 西軍の主勢力であった山名が帰参したことは、少しずつ他の西軍武将に影響を与えていきました。例えば文明6(1474)5月には西軍方の一色義直の子・義春(よしはる:1466~1484)が義政に帰参し、丹後国を安堵されています。
 丹後守護職には元々一色義直が就いていましたが、義直が西軍方についたため文明元(1469)年4月に解任され、それ以降は隣国の若狭守護・武田信賢が丹後守護を兼ねていました。文明3(1471)年6月2日にその武田信賢が死去し、弟の国信が丹後守護を継いだ経緯があるため、国信としては丹後を一色家に返すことに納得できるはずがありません。
 武田国信は細川政国を味方につけ、丹後の引き渡しを拒みました。東軍守護でさえ将軍の命に逆らうとは、幕府の権威はガタ落ちです。
 各地での戦闘も続いています。閏5月5日には西軍の甲斐敏光が敦賀天神(福井県敦賀市)に侵攻しましたが、朝倉孝景に敗れました。越前での東軍有利の状況を憂えた美濃守護代・斎藤妙椿は、6月10日に数千騎を率いて越前にやってきたかと思うと、なんと甲斐・朝倉双方に和睦を命じました。なぜか妙椿の斡旋によって越前の平和が保たれたわけで、妙椿は西軍の代表格でありながら幕府の政務代行のようなことをして、存在感を強めています。
 妙椿は今や美濃を牛耳る力を持っています。斎藤利永・妙椿によって隠居させられていたかつての美濃守護・土岐持益は、一切の実権を持たされない自らの地位を嘆いて9月7日に「狂死」したと伝えられています。妙椿に憤っての自害だったのかもしれません。
 同じ9月には、大内政弘が周防への帰国を望み、日野勝光を通して降伏を申し入れたとの噂が流れました。西軍最大勢力の大内が幕府に帰参すれば、幕府にとって大きな弾みになります。(東軍方が流した虚偽情報の可能性もありますが。)
 降伏を申し入れるに当たって日野勝光を窓口にしたことは注目すべき点です。この時期、新将軍義尚はまだ幼く、日野勝光が「新将軍代」などと呼ばれて義尚への取次ぎを担当し、絶大な権力を手にしていたのです。武士でない勝光が幕政の主導者だったとは驚きです。
 この年の7月には、日野勝光が命令を聞かないことに苛立った後土御門天皇が遁世を口にしたとの記録もあります。頼りない義政に代わり、勝光・富子兄妹が幕府を牛耳っていたのでしょう。

中国では皇帝の外戚が力を持つケースが多かったようですが、日本でも将軍の外戚たる日野勝光が力を持ったのですね。

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