日本人の物語00443【平安後期】治承三年の政変
鹿ヶ谷の陰謀に失敗した後白河法皇でしたが、これに懲りた様子も見せず、清盛との対決姿勢を崩そうとしません。
治承3(1179)年6月17日、清盛の娘であった平盛子(たいらのもりこ:1156~1179)が死去しました。
盛子は近衛基実の正室として多くの荘園を領有していました。その遺領は、本来ならば平家が相続してもよいはずだったのですが、後白河はなんとこれを没収してしまいます。清盛を挑発しているとしか思えない行為です。
同年閏7月には、重盛が病に倒れ、危篤となりました。平家の中で最も人望に厚く、「平家の良心」とも目された重盛に死なれたとあっては、大いなる損失です。清盛は宋の医師を呼ぼうとしますが、重盛はこれを拒否します。「宋の医師のおかげで治ったとあっては、国の恥だ」というのです。
重盛は死の床にあって、なおも清盛と後白河の対立を憂慮していました。病床の重盛は清盛に対し、
「忠ならんと欲せば孝ならず、孝ならんと欲せば忠ならず。進退これ窮まれり」
とその苦悩を訴えたといいます。「忠」とは皇室に対する忠義、つまり後白河法皇に対する忠義を意味し、「孝」とは親に対する孝行、つまり清盛に対する孝行を意味します。後白河法皇と清盛との間で板挟みに遭う自らの苦悩を、父に訴えたのです。
清盛はさすがに反省し、重盛に対してこれ以降は後白河法皇との関係を改善すると誓いました。しかし閏7月29日、看病の甲斐なく、重盛は死去してしまうのです。
清盛としては、重盛の遺言もあって、後白河との対立を避けたいという気持ちもあったでしょうが、後白河はそのようなことは屁とも思っていなかったのでしょう。重盛の遺志を踏みにじるように、重盛の遺領を勝手に没収し、清盛をさらに挑発したのです。
これを見た清盛は、もはや我慢の限界とばかり、行動を起こしました。11月14日、数千の兵を率いて福原から上洛し、翌15日に後白河の御所である法住寺殿を襲撃したのです。
後白河にとっても、清盛がここまでの強硬手段に出るとは予想外だったようです。後白河は慌てて「今後は政務に介入しない」と約束して許しを乞いますが、清盛はこれを許さず、そのまま鳥羽殿に連れて行き、幽閉してしまいます。
同日、平家に敵対的だった摂政・松殿基房は解任され、備前に配流となりました。後任の摂政には、近衛基実の長男であった19歳の近衛基通(このえもとみち:1160~1233)が選ばれました。中納言や大納言を経ない異例の昇進です。基通は清盛の娘・完子(さだこ)を娶っていたことから、清盛としてはコントロールしやすいと考えたものと思われます。
この事件を「治承三年の政変」と呼びます。これにより、清盛は遂に「治天の君」をも超える権力を握ったのでした。
