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日本人の物語00521【鎌倉初期】時忠の手紙

 元暦2(1185)年4月24日、壇ノ浦での死闘を終えた義経が、京に凱旋しました。ここから捕虜の扱いを決定しなければなりません。
 捕虜となっていた平時忠は、ふと家の中に、源氏方に見られるとまずい手紙が残っているのを思い出しました。子の時実(ときざね:1151~1213)を呼んで、
「あれが見られると私の命も危ないし、多くの者が死罪となる。どうしよう」
と相談しますと、時実は
「義経殿は情けの深い方だと聞いています。娘の一人を義経殿に娶らせて、仲良くなったところでその娘から手紙のことを言い出せばよいのではないでしょうか」
と答えます。すると時忠は
「娘は女御や后にしたいと思っていたのに、普通の人に嫁がせることになるとは」
と涙を流し始めました。
 何とも勝手な言い分ですね。時実が
「今はそんなことを言っている場合ではないでしょう」
と諭すと、時忠は先妻との間に産まれた数え23歳の娘を選んで、義経に差し出しました。
 その娘は蕨姫(わらびひめ)という名で、美しい容貌でした。義経には既に静御前(しずかごぜん)という白拍子もいましたし、正妻として頼朝から送り込まれた河越重頼の娘・郷御前(さとごぜん:1168~1189)もいたはずですが、義経はたちまちこの蕨姫を気に入って寵愛したようです。ちゃんと蕨姫のための住居も用意して、そこに通い詰めたといいます。
 蕨姫が良いタイミングで義経に対して手紙のことを切り出してみたところ、義経はすぐにその手紙を探し出し、封さえも開けずに時忠のところに届けさせました。時忠は喜んでその手紙を焼き捨てました。
 一体どんな手紙だったのか気になりますが、平家物語はその手紙の内容について一切触れていません。
 さて、このエピソードは、義経の政治的センスの欠如を示すものとして知られています。こうした鈍感さが、兄・頼朝の思惑を読めず上手く立ち回れない義経の悲劇につながったのでしょう。
 しかし、義経は仮に手紙にどんなことが書かれていようと、それを暴いていたずらに死罪を増やそうという気持ちを持たなかったのだろうと思います。猜疑心の塊のような頼朝とは対照的に、義経は無邪気な好人物だったのでしょう。

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