日本人の物語00626【鎌倉前期】地頭人事への介入
実朝の死を受けて、新たな将軍を擁立しなければなりませんが、その暇もなく建保7(1219)年2月11日、新たな戦乱が起こりました。駿河国阿野荘(静岡県沼津市)に隠棲していた阿野時元(あのときもと:?~1219)が、将軍位を狙って蜂起したのです。
時元とは、頼家に殺害された阿野全成と阿波局の間に産まれた子です。源氏の血を引く自分には将軍位を継ぐ資格があると考えたのでしょう。しかし、さほどの兵力を集められなかったらしく、2月22日には義時が派遣した御家人らに討ち取られ、反乱はあっけなく収束しました。
時を同じくして、2月13日、御家人の二階堂行光(にかいどうゆきみつ:1164~1219)が京に派遣されました。次なる将軍を派遣してほしいと後鳥羽上皇に要請するためでした。
「後鳥羽上皇の皇子を4代将軍とする」という話は前年から議論されていたもので、後鳥羽上皇も一考の余地があるとして検討していたところでしたが、このとき後鳥羽上皇は皇子を下向させるのかさせないのか、何ともいえない微妙な動きをするのです。
後鳥羽上皇は皇子下向の要請に直接答えず、実朝の弔問使として、側近の藤原忠綱(ふじわらのただつな)を鎌倉に派遣しました。忠綱は3月8日に鎌倉に到着し、弔問を終えた翌9日、後鳥羽上皇の意向として
「長江荘(場所不明)と倉橋荘(大阪府豊中市)の地頭を交代させてほしい」
と幕府に要請してきました。長江荘と倉橋荘は、後鳥羽上皇の寵愛する亀菊(かめぎく)と呼ばれる白拍子の領有する荘園で、地頭と仲が悪かったそうです。
この後鳥羽上皇の要求は、
「将軍を出してやるのだから交換条件としてそのくらいは認めてくれ」
という意味合いだったのでしょう。しかし、義時はこれを拒否しました。
研究者によっては
「この程度の要求を拒絶するとは非常識で、幕府側が上皇側を挑発したといえる」
と主張する人もいれば、
「朝廷が幕府人事に介入することは幕府の根幹を揺るがすことである。上皇は我が子を将軍として下向させることで、その子を通じて幕府をコントロールできるかどうかを見極めるため、まずは軽めの人事に介入して幕府が容認するかどうか試したのだ」
と主張する人もいます。
一方、
「将軍が暗殺されるような危ない場所に可愛い我が子を派遣できるわけがない」
との思いから、そもそも後鳥羽上皇は皇子下向を拒否する決意を固めており、地頭人事は何の関係もないという説もあって、真相は分かりませんが、いずれにせよ幕府が地頭解任を拒否したことで、後鳥羽上皇は態度を硬化させてしまいます。
