日本人の物語01210【南北朝最末期】譲位をめぐる内紛
14世紀から全然抜け出せないですね。今後も16世紀、19世紀、20世紀はとんでもない長さになりそうです。
かつては側近の言いなりだった義満が独裁者となりつつあるのを知った管領・斯波義将は、弘和元/永徳元(1381)年9月16日に辞意を表明しました。義満がお気に入りの細川頼之を復帰させようとしていることを知り、それを阻止するためのブラフでしょう。現時点で斯波派を敵に回すわけにいかない義満は、
「頼之を幕政に復帰させることはない」
と誓うことで義将の辞意を撤回させました。
絶好調の義満は、さらに後円融天皇に頼られ、皇位継承にまで助言を求められます。11月30日の後円融天皇の日記によると、天皇は参内した義満と対面し、父・後光厳の系統と伯父・崇光の系統の内紛について、
「祖父(光厳)はあくまで我が父(後光厳)の系統が皇位を継承することを望んでいた。にもかかわらず、伯父(崇光)は『我が子の栄仁に皇位を譲れ』と主張しているのだ」
と説明し、自らの子に皇位を継承させるための協力を求めました。義満の反応については
「了解したように見えた」
と書かれています。
12月24日、今度は後円融天皇はさらに重大な相談を持ちかけます。
「皇位は誰に継承させるのがよいか。そなたが決めてほしい」
と切り出したのです。
これは、後円融の長男・幹仁親王(もとひとしんのう:後の後小松天皇:1377~1433)と次男・道朝法親王(どうちょうほっしんのう:1378~1446)のうちいずれに皇位を譲るべきかを尋ねたともとれますし、従弟の栄仁親王に譲った方がよいかを相談したものととることもできます。いずれにせよ、あまりに卑屈な態度です。
これに対して義満は
「私の経験上、弟を立てるとロクなことになりません。長男の幹仁様がいらっしゃるのに、なぜ他の選択肢をお考えになるのですか」
と述べました。義満が「経験上」と言うように、室町幕府の混乱は尊氏と直義の対立から始まっていますから、もっともな意見です。天皇が
「確かに幹仁以上の適任者はいまいが、念押しで確認したまでだ」
と述べると、義満は
「念押しなど必要ないでしょう。院(崇光上皇)の動向を恐れ過ぎではありませんか。たとえ誰が相手方を支援しようとも、私がいる限りはご安心ください」
と述べ、天皇を安心させました。
それにしても、天皇はなぜ皇位継承の決定権を将軍に委ねるという卑屈な態度に出たのでしょうか。
