日本人の物語01480【室町/西国/大乱前夜】越前長禄合戦 義敏失脚
「甲斐」という苗字なのに甲斐国(山梨県)ではなく越前国(福井県)の人なんですよね。その理由はよく分かっていないようです。
斯波義敏は命令されたとおり京を出発しましたが、直接関東に向かおうとせず、なんと越前に寄り道し始めました。そして長禄3(1459)年5月13日、堀江利真らとともに金ヶ崎城(福井県敦賀市)の甲斐常治を攻撃したのです。これは幕府の了解なしに勝手にやったことでした。
しかも義敏の戦いは大敗北に終わりました。暴風により800人の溺死者を出してしまったのです。
勝手に戦いを始めて勝手に負けた義敏に、将軍義政は激怒しました。東福寺(京都市東山区)の僧侶・雲泉太極(うんぜんたいきょく)の日記『碧山日録』によると、義政は次のとおり語ったといわれています。
「予、小臣に命ずるに関右の征を以てす。何ぞ朝敵を外にして家讐を内にせんや、甚だ無頼なり。小臣の族を夷滅すべし」
(私はお前に関東征伐を命じたのだ。なぜ朝敵を差し置いて家の仇を討とうとしたのだ。期待外れだ。お前の一族を滅亡させてやる)
いやはや、激怒というレベルではなく、今にも軍勢を差し向けて殺してしまいそうなレベルです。義敏はあわや討たれるところを細川勝元の取りなしにより、
・義敏は越前守護職を罷免した上、周防に追放
・斯波家の家督は義敏の子・斯波義寛(しばよしとお:1457~1513)に継がせる
という形で済みました。ちなみに斯波義寛はまだ元服前で松王丸と名乗っていましたが、ややこしくなるので義寛という表記で通します。
これ以降、義敏は周防守護・大内教弘の庇護を受けて過ごしました。
義敏が不在となった後も、守護・義寛を支援する派と守護代・甲斐常治を支援する派の内紛は続きます。途中から甲斐常治は病が重くなったため京の自邸に引き籠もるようになり、越前国内では甲斐に代わって朝倉孝景が指揮を執るようになりました。
8月11日。和田(福井県福井市)で守護方の堀江利真と守護代方の朝倉孝景が激戦を繰り広げました。守護方は堀江利真が戦死するほどの大損害を受け、これにて越前長禄合戦は守護代の勝利という形で幕を閉じました。
時折しも、翌8月12日に甲斐常治は京で病死しました。恐らく前日の勝利の報はまだ京に到達していなかったでしょう。越前を事実上支配していた甲斐氏の役割は、これ以降同僚の朝倉孝景に託されることとなります。
甲斐常治が死ぬと、甲斐氏は突然勢いを失います。これ以降、越前の実力者は朝倉氏となります。
