日本人の物語00505【平安末期】義経の無断任官*
さて、平家が屋島に逃亡したのち、源氏方はなかなかこれを追撃できずにいました。というのも、陸戦ならともかく、海軍力では平家に太刀打ちできる自信がなかったからです。
この頃、鎌倉勢の中でひどくキナ臭い事件が起こっています。
まず寿永2(1183)年12月22日、頼朝は梶原景時に命じて上総広常を殺害させました。双六の最中の突然の暗殺だったといいます。詳細は不明ですが、何らかの謀反を企んでいたからというのです。
ところが翌寿永3(1184)年1月17日、上総広常の居館を捜索してみたところ、無実が判明したといいます。
以上は、鎌倉幕府の公式歴史書たる『吾妻鏡』に記載されている話です。上総広常といえば、最初に味方になる時点から頼朝に叱責されるなど、少々性格に難のあった人物のようですが、だからといって、無実の者を疑って殺してしまうとはひどい話です。吾妻鏡は北条氏が編纂させた歴史書ですから、頼朝が猜疑心に満ちた人物だったということを強調して、北条氏が実権を握ったことを正当化しようとしているのかもしれません。
さらに寿永3(1184)年7月25日、源氏方の一条忠頼が鎌倉に招かれ、酒宴の最中に頼朝の命で殺害されました。これまた原因については書かれていませんが、おそらく源氏方の内部で頼朝派とアンチ頼朝派の対立があって粛清されたのでしょう。
そうした内紛の中にある鎌倉勢の中に、さらなる爆弾が投下されました。8月6日、後白河法皇が義経を呼び出し、左衛門少尉と検非違使に任官したのです。
頼朝は御家人たちに対し、自分の許可なく勝手に任官しないよう申し付けていました。それは、法皇に手なづけられて頼朝の指示に従わない者が出てくることを予防するためでしょう。
しかし義経は法皇から直々に任官を下され、断りにくかったのでしょう。任官を受けてしまった義経は、文を送り頼朝に事後報告しますが、頼朝は不快感を示しました。
これに続いて、他の御家人たちも義経と同様、次々と無許可で任官してしまい、頼朝は激怒します。これというのも、最初に義経が任官を受けたせいだというのです。義経は大いに頼朝の不興を買い、当面の間、義経は平家追討軍に加わらないよう指示を受けてしまいました。
9月1日。義経は京に留め置かれ、範頼だけが西国に出撃していきました。
しかし、頼朝はすぐに自らの判断を覆さなければならなくなります。やはり戦闘の天才・義経を投入しなければ、平家追討はままならないのです。


