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日本人の物語01144【南北朝後期】白峰合戦 清氏戦死

南朝方に寝返った武将たちが次々と幕府に帰順しているのに、清氏だけは呆気なく討ち取られてしまうんですよね。頼之はなかなかに非情です。

 清氏が真壁を引き倒したところに、すっとにじり寄ってきたのが伊賀高光です。伊賀高光はこれを敵の大将だと知って襲い掛かってきたのでした。
 伊賀高光は敵を次々倒しながら清氏に近づいていきます。ちょうど清氏は馬から落とした真壁の首を斬ろうと刀に手をやったところでした。そこに伊賀高光は割って入って太刀を差し込み、遂に清氏の首を取ったのでした。
 名の聞こえた猛将・清氏がやられたと知った兵たちは、指揮官を失って大混乱に陥り、次々と逃げ出していきます。
 西長尾城に向かっていた細川頼和は、24日朝に新開が引き返したことを知って、
「しまった。陽動作戦にかかってしまったか。兄上が危ない」
と言って、すぐに白峰城に引き返しましたが、その途上に新開軍が待ち受けていました。険しいところで地の利が悪く、何時間も戦ってようやく新開真行を攻め破り、白峰城へと急ぎます。
 その途中、たまたま落ち武者らしき一行と行き会ったので
「戦の様子はどうだったか」
と尋ねると、泣き声で、
「既に清氏殿はお討たれになったようです」
との返事が返ってきました。
 頼和が白峰城を見上げると、確かに旗が既に入れ替わっており、城は頼之の手に落ちたようでした。もはやこれ以上戦う気力を失い、立て籠もるべき城もなく、頼和は兵たちを連れて淡路島に逃亡しました。
 しかし、淡路島の兵たちももはや頼和に味方してくれる者はいません。頼和はそこから小舟に乗って和泉国へと逃亡します。さらに西長尾城も敵中に孤立した状態となり、城を守っていた中院源少将らは攻撃を受ける前に逃げ出しました。
 こうして四国の反乱はあっという間に鎮圧され、全て細川頼之方の手に落ちたのでした。
 清氏ほどの武将が、数の上では有利なはずの合戦でなぜ戦死したのでしょうか。
 記録を見ると清氏は、
・正平6/観応2(1351)年9月17日:近江八相山の戦いで負傷
・正平7/観応3(1352)年4月:八幡の戦いで負傷
・正平10/文和4(1355)年4月13日:第六次京都合戦で負傷
といった調子で、とにかく戦に出れば怪我をしています。清氏は慎重な頼之とは対照的に、大将なのに最前線に出て戦ってしまう豪快な性格なのでしょう。むしろこれまで生きていたほうが不思議なくらいで、いつ戦死してもおかしくなかったのですね。

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