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日本人の物語01546【室町/西国/応仁の乱】後花園上皇の責任

責任を感じているのに、更に責任から逃れようとする人いますよね。

 応仁元(1467)年6月の話を続けます。
 この頃、後花園上皇が弟の伏見宮貞常親王に書き送った書状が残っています。そこには上皇の思いが赤裸々に語られています。
「今まで私がやってきたことには何の意味もなかった。全てを捨てて逃げ出したい気持ちだ。このような戦乱を招いてしまったことは実に面目ないことである。さらに戦乱がこじれた場合、自分が老後に受けるであろう恥辱を思うと、悔しくて仕方がない。(生まれ故郷である)伏見にでも隠遁したいところだ。万一情報が漏れてしまっては、武家に邪魔立てされるであろう。どうか隠密に協力してほしい。伏見への出発の日は、17日又は20日あたりでいかがだろうか」
 なんと後花園上皇は全てを捨てて伏見に隠遁したいと述べているのです。それも日付を指定して非常に具体的な計画を相談しているようです。つまり、伏見に住んでいる弟に手引きしてほしいということでしょう。
 どうやら後花園上皇は、応仁の乱を招いた責任は自分にあると考えているようです。上御霊社の戦いの際、宗全軍に連れられて将軍御所に入り、申請された通りに畠山政長追討の院宣を出してしまったことが、更なる戦乱を招いたと後悔しているのでしょう。伏見に隠遁して責任を取ろうと思ったのかもしれません。
 しかし実際には後花園上皇は隠遁しませんでした。計画が露見したためか、思い直したのかは分かりませんが、後花園上皇は最後まで京に残ることとなります。
 歴史学者の秦野裕介氏は、
「この隠遁計画を止めたのは他ならぬ貞常親王ではないか」
と推理しています。そもそも伏見に隠遁したところで、それは責任ある行動ではなくただの逃避であり、混乱に拍車がかかるだけです。むしろ宮中から幕府に停戦を働きかけることこそが終戦への近道でしょう。
 後花園上皇の苦悩をよそに、戦線は拡大していきました。義視が東軍総大将に就任した6月8日には一条大宮で東軍・赤松政則が西軍・山名教之を破り、東軍が一挙に優位に立ちました。
 この機に義政は西軍に降伏を薦め、西軍の主力の一人である斯波義廉は動揺し、戦いを放棄して自邸に引きこもるようになりました。六角高頼や土岐成頼も東軍に寝返ることを検討し始めました。
 義廉もまた、東軍への降伏を考えましたが、東軍側の条件が朝倉孝景の首と知ったため降伏を諦めました。斯波家でも影響力の大きい朝倉孝景を斬首することは不可能だったのでしょう。

まあ責任逃れというと聞こえが悪いですが、もし上皇が京を離れてしまえばそれは猛烈な政治的抗議と受け取られるわけで、もしかすると上皇は抗議の意を示して終戦に持ち込みたかったのかもしれませんね。

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