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日本人の物語01191【南北朝末期】室町御所誕生

三つの幕府がそれぞれ天皇の御所からどのくらい離れていたかというと、
鎌倉幕府:直線距離350km
室町幕府:徒歩5分
江戸幕府:直線距離370km
となります。室町幕府は突出して近いですね。

 天授4/永和4(1378)年3月10日。将軍義満は三条坊門の旧居を出て、かねてより建設中だった北小路室町の新居に移りました。ここは元々崇光天皇の御所であり、後円融天皇が住む御所から徒歩5分程度の近距離にあります。3月10日時点ではまだ一部が建設中でしたが、大部分が完成済みだったので「新第移徒(しんていわたまし)の儀」が執り行われました。この住居は後に「花の御所」と呼ばれるようになります。また、この住居の所在地が「室町」であることから、義満以降の将軍は「室町殿」と呼ばれるようになりました。
 これまで便宜上「室町幕府」という名称を用いてきましたが、将軍が室町に住み始めたのはこの頃からです。もしこの転居がなければ、この幕府は「三条幕府」と呼ばれ、この時代は「三条時代」と呼ばれていたでしょう。事実、直義と義詮は三条坊門の居館に住んでいたことから「三条殿」又は「三条坊門殿」と呼ばれていたのです。
 義満はなぜ三条から室町に移り住んだのでしょう。もちろん、天皇の御所から近くて便利ということもあったでしょうが、それだけではないでしょう。そこには皇位継承をめぐる義満の思惑もあったと思われます。
 前述のとおり、崇光上皇と後光厳上皇の兄弟は対立していました(01048回参照)。崇光上皇は自らの子である栄仁親王に、後光厳上皇は自らの子である後円融天皇に、それぞれ皇位を継承したいと考え、前者には斯波派・渋川派がつき、後者には細川派・義満がつく構図となりました。結果的に細川派が勝利し、次代天皇は後円融天皇となりました。
 義満は崇光上皇が天皇だった頃に住んでいた御所をもらい受け、そこをあえて将軍御所とすることで、崇光上皇にもはや幕府は敬意を払っていないこと、よって崇光の系譜はもはや天皇には即位しないことを内外に示そうとしたと考えられます。
 義満がこのような形で朝廷を牛耳るほどの権力を身につけることができたのは、義満の考えが朝廷側の最大の実力者・二条良基の思惑と完全に一致したためでした。良基は逼迫する朝廷の財政を回復させるため、幕府から金を引き出そうとし、そのためなら朝廷が幕府の権威付けのために利用されてもよいと考えていたようです。
 室町後期に成立した『源氏大綱』には良基のしたたかな一面が描かれています。義満が
「おもろくて 物ほしげなる 翁かな」
という歌で、何かと金を無心してばかりの良基を揶揄したところ、良基は悪びれもせず
「ながらへて あすまで物は ほしからじ この夕暮に 賜ばば賜べかし」
と返歌を詠んだというのです。これは式子内親王の
「生きてよも 明日まで人も つらからじ この夕暮を とはばとへかし」
をもじったもので、「更なる無心をしてやるぞ」とおどけてみせたというわけです。

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