日本人の物語01129【南北朝後期】畠山国清反逆 討伐令
先日、室町時代を舞台にした映画『室町無頼』を見てきました。一揆の場面は大迫力で、映画館でこその見応えのある良作でした。ああいうレアな時代を描いた作品がもっと増えてくれると嬉しいですね。
足利基氏にとって国清は12歳の頃から自分を支えてくれた重要な補佐役ですが、21歳になった今、全ての政務を取り仕切っている国清が煙たく見えたのかもしれません。
思えば基氏は9歳の頃、父・尊氏と別れて鎌倉に下向させられました。当初は関東執事・上杉憲顕の補佐を受け、11歳のときに京での政争に敗れた直義を匿いますが、12歳のときに直義は敗死し、鎌倉府の体制は「薩埵山体制」と呼ばれる体制に一新され、関東執事に畠山国清が据えられたのでした。
つまり基氏は、鎌倉統治の前半は直義党の上杉憲顕、後半は尊氏党の畠山国清の補佐を受けていたわけですが、どちらをより信頼していたかというと、圧倒的に上杉憲顕でした。というのも、義堂周信(ぎどうしゅうしん:1325~1388)という僧が
「基氏様は政務の妨げになるからと言って、田楽を好まなかった。これは直義様がそうだったからそうしていたらしい」
と書き残しており、どうやら基氏は直義を尊敬して、手本としようとしていたようなのです。
つまり基氏は、直義政権を葬って構築された薩埵山体制を嫌悪していた可能性があり、それゆえに畠山国清を快く思っていなかったのかもしれません。
基氏は国清に
「さしたる罪のない多くの人の所領を没収したのはどういうわけか。弁明があれば聞こう」
と詰問状を送りました。これを受け取った国清は
「こうなった以上、もはや弁明しても無駄だろう」
と述べ、兄弟や郎党とともに300騎で鎌倉を出て領国の伊豆へと向かいました。
畠山一行が小田原(神奈川県小田原市)を通過する際、そこを治めていた土肥掃部助(どいかもんのすけ)が、
「敵が近くを通過するというのに、矢の一本射かけないということがあってよいのか」
と言って、たった8騎で畠山一行に攻めかかりました。もちろん8騎で300騎に敵うわけもなく、簡単に追い払われてしまいました。
このエピソードは、義経が500騎で都落ちした際に、太田頼基が僅か50騎でこれに攻めかかったという平家物語の話(00529回参照)に似ていますね。やはり太平記はとことん平家物語を意識しています。
国清たちは小田原を無事に通過し、伊豆へと到着しました。一方、国清の弟・義深は信濃へと落ち延び、諏訪大社(長野県諏訪市)の神職たちを味方につけました。
正平16/康安元(1361)年11月23日、基氏は出奔した国清を関東執事から罷免する決定を下し、さらに26日には討伐令を関東中に布告しました。
こうして畠山国清は、完全に反逆者となりました。
