日本人の物語00295【平安中期】承平天慶の乱 武蔵国の内紛
承平8(938)年2月。逆賊となった平貞盛は釈明のために都に赴きました。
これを知った将門は貞盛を追跡し、信濃国分寺(長野県上田市)で追いつき、千曲川を挟んで合戦となります。将門はこの戦いに勝利したものの、貞盛を取り逃がし、捕縛することはできませんでした。
貞盛は都に到着し、将門の暴挙を訴えました。暴挙といっても、政府から
「平良兼、平貞盛、源護らを追捕せよ」
との命を受けているわけですから、将門の行動には何ら不当なところはないと思うのですが……。
しかし、不思議なことに同年6月、貞盛に対して将門追捕の官符が下されてしまいます。貞盛の話だけを聞いて一方的に判断してしまったのでしょう。この時代の政府がいかにいい加減かが分かりますね。
しかし裏を返せば、まだこの時点では、将門がちゃんと都に行って申し開きをすれば、逆賊とみなされずに済んだ可能性があると思われます。
貞盛は官符を手に坂東へ戻りますが、将門を討伐するでもなく、戦闘を恐れて対決を避け、山中で野宿して過ごしました。意外に情けない男ですね。
さて、将門が貞盛を征討するはずだったのが、逆に貞盛が将門を征討するという状況に逆転してしまったわけですが、時折しも、武蔵国で内紛が起こり、それが将門の運命を大きく変えてしまいます。
話は数ヶ月さかのぼります。
同年2月、武蔵国内で、国司と郡司の対立が起こったのです。
国司側は、
・武蔵権守(むさしごんのかみ:武蔵守の代理であり実質トップ)を務める興世王(おきよおう:?~940)
・武蔵介(むさしのすけ:武蔵国府のナンバー2)を務める源経基(みなもとのつねもと:?~961)
の2名です。
一方、郡司側は足立郡司を務める武蔵武芝(むさしのたけしば)です。
国司が都道府県庁で、守が都道府県知事だとしたら、郡司は市町村長だと考えるとよいでしょう。
対立の原因は、権守である興世王が足立郡内に立ち入ろうとすると、武蔵武芝が
「守がまだ着任していないので権守の立ち入りはならぬ」
と拒否したことでした。知事が着任していないのに知事代理が入国するのは許さないというわけですね。
将門はこの対立を調停することになるのです。
