日本人の物語01490【室町/西国/大乱前夜】義敏・義就赦免の衝撃
大河ドラマ『花の乱』は、日野富子を主人公にしたためか、畠山義就というキャラの立っている人物をいまいち活かしきれていませんでした。もし今度、大河で応仁の乱を取り上げるのであれば畠山義就をしっかり描いてほしいですね。
前述したとおり、畠山義就討伐戦の舞台は大和から河内へと移りました。寛正3(1462)年4月10日、河内国金胎寺(大阪府富田林市)で義就軍と政長軍が戦いましたが、決着はつかずに終わりました。寛正4(1463)年4月6日には赤坂(大阪府千早赤阪村)で再戦が行われましたが、これまた決着がつきません。
粘りに粘った義就ですが、朝廷・幕府の支えがある政長軍の圧倒的物量の前に、遂に落ちるときが来ました。4月15日、義就の立て籠もる嶽山城(大阪府富田林市)が落城し、ここに3年かかった「河内寛正合戦」がようやく終結したのです。
義就は高野山(和歌山県高野町)に逃れて再起を図ろうとしましたが、5月2日になって高野山から入山拒否との回答が来ました。義就はとりあえず粉河寺(和歌山県紀の川市)に滞在し、その後吉野(奈良県吉野町)に向かいました。
これまで、義就の処遇をめぐって激しい浮き沈みがありましたが、まだまだ混乱が続きます。朝廷からも幕府からも敵とみなされた義就が、なんと赦免を受けられることになったのです。そのきっかけは、8月8日に日野重子が死去したことでした。
11月13日。日野重子の百ヶ日法要を契機に、罪人の恩赦が行われました。要人が亡くなったときに犯罪者を赦免すること自体はよくあることでしたが、このとき赦免リストの中に斯波義敏と畠山義就が入っていたことは、皆を驚かせました。義政はかつてこの2人に激怒していたはずなのになぜ赦免が実現したのかというと、周防に流されていた斯波義敏の巧みな嘆願運動が功を奏したからでした。
斯波義敏はこの嘆願に当たって、かつて敵対していた伊勢貞親を味方につけました。かつて義敏は守護代・甲斐常治と敵対した際、甲斐常治の妹が貞親の妾であったことが原因で、不利益を被ったことがありました(01467回参照)が、そのとき
「なるほど、貞親に妾を送り込んで味方につければよいのか」
と学習した義敏は、自分の妾の姉妹を貞親に送り込み、個人的な縁故を作ったのです。
伊勢貞親は赦免リストに斯波義敏を載せ、将軍義政に働きかけて見事に赦免を勝ち取りました。義敏復権については細川勝元も賛成するでしょうから、難しくはなかったでしょう。
一方、なぜ同時に畠山義就までもが赦免されたのかはよく分かっていません。義就の味方は将軍側近の中にはいないはずですから、実に不思議です。何となく2人セットで扱われたのでしょうか。
斯波義敏と畠山義就の赦免は、斯波義廉と畠山政長に衝撃を与えました。とはいえ、家督はなおも義廉と政長にありますし、義就は上洛しても屋敷もないので相変わらず天河(奈良県天川村)に潜伏し、越智家栄の援助を受け続けます。
不安を覚えた斯波義廉は、山名宗全の娘と婚約することで同盟を組み、義敏に対抗することとしました。応仁の乱の対立構図が徐々に出来上がっています。
天川村というと、浅見光彦シリーズの『天河伝説殺人事件』を思い出します。
