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日本人の物語01012【南北朝前期】岩屋寺のててうち栗

 尊氏は山陰道を西へ下っていきました。一方、義詮はこれとは別行動をとることとし、仁木頼章・義長兄弟とともに丹波国の岩屋寺(兵庫県丹波市)に留まることとなりました。父子で一緒に行動すると、敵に囲まれた際に一家が全滅してしまうためでしょう。
 岩屋寺は尊氏への忠誠心が強く、兵糧や馬の藁を積極的に提供してくれました。これまで追っ手を気にして心の休まる暇のなかった一同は、ようやく岩屋寺で身を休めることができました。義詮は住職に感謝して、小川庄(兵庫県丹波市小川地区)を寺の領地として寄付したといいます。
 さらに岩屋寺の僧は義詮に栗を献上しました。古来、丹波は栗で有名な土地だったようです。義詮はその一つに爪痕を付け、
「都をば 出て落ち栗の 芽もあらば 世に勝ち栗と ならぬものかは」
(もしこの栗が芽を出すことがあれば、私は都に出て天下を取ることができるだろう)
と願をかけて栗を植えました。
 その後、その栗は見事に芽を出し、さらに義詮が見事に京を奪回したことから、この栗は丹波名物として「爪あと栗」又は「ててうち栗」と呼ばれるようになりました。「ててうち」は「出て落ち」が訛ったものでしょう。この「ててうち栗」のエピソードは『太平記』の第29巻に載っているものです。
 ちなみに岩屋寺は現在岩屋山石龕寺(いわやさんせきがんじ)と呼ばれ、紅葉の名所として知られています。今もなお、古くから伝わる『太平記』第29巻の該当部分の版木が保管されているそうです。
 さて、尊氏が山陰へと赴いたので、ここで石見国(島根県西部)の高師泰と三隅兼連の戦いに目を戻してみましょう。
 師泰は三隅城を取り囲んでいたところに、尊氏から
「三隅城を攻めるのは中止して、京に戻れ」
との命令を受け取ったのでしたね。この後、さらに師直からも手紙が来て、
「摂津・播磨あたりで合戦が起こると思われる。石見の合戦は一旦さしおいて、早くこっちに来い。中国地方の者たちが道を塞ぐおそれもあるから、息子の師夏をあらかじめ備前国へ遣わしておく」
とのことでした。
 師泰は急ぎ石見を出発し、師夏もまた備後国石崎(広島県福山市)に到着しました。高一族は一致協力して直義との戦いに備えようとしています。
 それにしても三隅兼連率いる三隅城は、2万人に取り囲まれながら僅か2千の兵で130日も持ちこたえたわけで、なかなかの名将といえます。

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