日本人の物語00951【南北朝初期】塩冶判官讒死 顔世御前の死
いま下書きは1440年代まで進んでおり、まもなく応仁の乱に差しかかるところです。この応仁の乱を分かりやすく書けるかどうかが中世最大の山場のような気がしています。試されてるぞ・・・!
桃井直常と塩冶家の郎党たちの戦いは、一方的なものとなりました。矢が尽きた塩冶方はもはやこれまでと覚悟し、一同で腹を切ろうと小屋の中へ走り込みました。そこでは塩冶の妻・顔世御前が小さな子を抱き、涙を流して途方に暮れています。そこに、追っ手の兵たちが小屋を取り巻いて話し合っている声が聞こえてきました。
「そもそも、事の起こりは何だったか。たとえ塩冶判官を討ったとしても、その女房を捕らえなければ執事殿のお望みは叶わないだろう。女房は必ず生け捕りにせよ」
これを聞いた郎党たちは、
「顔世御前を生きた状態で敵に渡してしまうとどんなひどい目に遭うだろう」
と考え、御前を殺すほかなくなりました。
郎党の中に、八幡六郎(はちまんろくろう)という忠義の者がいました。六郎は塩冶高貞の3歳の子が母に抱きついているのを引き離して、近くのお堂にいた修行者に、
「この幼い子を出雲へお連れし、塩冶家に引き渡せ。きっと謝礼として所領をもらえるだろう」
と言って小袖を添えて渡し、さらに小屋に戻って、
「私は矢のある限り、ここを離れぬ。そなたらは中に入って、御前をお殺しして小屋に火を放ち、腹を切れ」
と指示しました。この指示により、郎党の中で山城宗村(やましろむねむら)という者が顔世御前の胸に太刀を刺してから自害しました。
顔世御前自身が殺害を受け入れていたかどうかが言及されていませんね。当時の武士にとって顔世御前自身の意志は重要ではなく、
「凌辱されるくらいなら殺してしまおう」
というのが通常の考えなのでしょう。また、主君の男子は家督継承のために生かしておく必要がある一方で、妻は死んでも家の存続に影響がないので助ける必要がないという点もいかにも中世らしい価値観です。
他の郎党たちは、主君が出雲で挙兵するための時間稼ぎをしようと、口々に
「我こそは塩冶高貞なり。首をとって師直に見せよ」
といって敵に斬りかかり、4時間もの間戦い続けました。
こうして、たった22人の塩冶方は思いのほか足利方を苦戦させました。
塩冶方が全滅したところで、足利方は焼け落ちた小屋の中を捜索しました。そこで顔世御前や山城宗村の死体を見つけ、一同は宗村の死体を高貞だろうと早合点してしまいます。
桃井直常はこれで仕事は終わったとばかり、京へ戻っていきました。
