日本人の物語00286【平安前期】平安前期総括
この稿では、延暦13(794)年から延長8(930)年までの136年間を取り上げました。この時代は、皇族から藤原氏に権力が移行していき、さらに藤原氏が他氏を次々排斥していった時代といえます。
初期には、桓武、平城、嵯峨という3人の個性の強い天皇が親政を行っていました。特に桓武天皇は、平安京造営と蝦夷征討という後世に多大な影響を与えた2大政策を実施しました。嵯峨天皇の時代には、平城上皇との対立が本格化し、武力衝突にまで発展しました。院政という概念はまだありませんが、上皇が天皇と対立するという構図は早くもこの時代に起こっていたのですね。
嵯峨天皇の崩御後、淳和から光孝に至る6代の天皇は、ほとんど政務に口を出すことなく、個性を発揮せずに終わりました。藤原良房・基経の存在感が大きすぎたのでしょう。良房・基経の時代に、北家藤原氏は3度に渡る謀略により他氏を排斥し、権力を握っていきました。
・承和9(842)年:承和の変で伴健岑と橘逸勢が流罪
・貞観8(866)年:応天門の変で伴善男が流罪
・仁和4(888)年:阿衡の紛議で橘広相が罷免
基経の死後、宇多・醍醐の2代は自ら政務に関わろうとしました。特に宇多天皇は藤原時平よりも菅原道真を重用し、政治改革を推し進めました。しかし昌泰4(901)年、昌泰の変で菅原道真が左遷され、時平の治世が始まります。時平は醍醐天皇からの信任を背景に力を得て、政治改革に奔走しますが、志半ばで病に倒れます。
道真と時平の政策を比べてみましょう。
宇多天皇・菅原道真のコンビは、検税使を廃止して問民苦使(もみくし)を設置し、民衆の暮らしぶりと土地問題の実態を調査しました。一方、醍醐天皇・藤原時平のコンビは、延喜の荘園整理令を出して荘園を減らしたり、倹約を奨励したりして財政再建を目指しました。結局のところ、道真も時平も同じような経済政策を志向していたように思われます。
この時代の最大の社会問題は、荘園増加、戸籍捏造、国司の不正、そしてそれによる財政破綻でした。延喜14(914)年に三善清行が醍醐天皇に提出した『意見封事十二箇条』には、
・備中国邇磨郷(にまきょう:岡山県真備町)は、640年代には2万人の徴兵が可能だったため邇磨郷という地名がついた。しかし760年代には男子1900人。860年代には男子70人。893年には男子9人。現在はゼロである。
・国民の3分の2が脱税のために僧侶になっている。
・諸国の人口を再調査して口分田を正確に与えるべきである。
などと書かれており、まさに律令制度の破綻ぶりが如実に記されています。
平安前期、この社会課題に最も果敢に挑んだのが道真と時平だったと思われます。道真と時平が共に志半ばで倒れたことは非常に惜しまれるところです。
