見出し画像

日本人の物語01239【室町/義満期】室町の職制 三管領

「三管領四職」は高校日本史では丸暗記させられる重要事項です。高校時代はそれぞれのキャラが立っていない状態だったので、覚えるのに一苦労でした。

 鎌倉幕府において将軍に次ぐナンバー2は「執権」でしたが、室町幕府における同等の役割は「管領」と呼ばれました。当初は「執事」といって、足利家の家内の問題のみを切り盛りしていたものが、やがて幕府全体の政務を取り扱うようになったものです。
 「執事」と呼ばれていた頃は、高師直、仁木頼章、細川清氏がその職についていましたが、「管領」となって政治的権力を振るったのは斯波・細川・畠山の三家です。これら三つの家柄は「三管領」と呼ばれます。
〇斯波家(武衛家)
 足利家の庶流であり、陸奥国紫波郡(岩手県紫波町)を領地とした一族です。当初は足利姓を名乗っており、斯波高経は「我が斯波家は足利一族である。執事に就任するなど恥だ」と主張して、息子の執事就任を認めなかったほどの家格です(01138回参照)。代々「左兵衛佐(唐名では武衛)」に任じられたことから武衛家と呼ばれました。
 その後、高経の子・義将が初代管領に就任し、細川頼之と事あるごとに対立しました。もし細川派と斯波派の対立が戦乱に発展していたら、義満は迷いなく細川派の味方をして斯波家をつぶしていたでしょうが、斯波義将は上手く立ち回って戦乱を回避し、幕府を支え続けました。その甲斐あって斯波家はその後も管領を多数輩出することになるのです。
 しかし戦国時代に織田信長の台頭によって滅ぶこととなります。
〇細川家(京兆家)
 足利家の庶流であり、三河国細川郷(愛知県岡崎市細川町)を領地とした一族です。これまた当初は足利姓を名乗っており「御一家」になってもおかしくない一族でしたが、2代管領に細川頼之を輩出したことで、幕府を支える筆頭家臣の一つとみなされるようになりました。代々右京職(右京大夫)を務め、その唐名を「京兆(けいちょう)」と呼ぶことから京兆家と呼ばれました。
 その後も頼之の弟・頼元が4代管領となり、頼元の子孫たちは応仁の乱後は将軍をしのぐ権限を持つようになります。戦国時代を乗り切り、熊本藩主となって江戸時代をも乗り切り、戦後は内閣総理大臣・細川護熙を輩出することになります。
〇畠山家(金吾家)
 源平合戦で活躍した畠山重忠の弟の子孫であり、足利一族ではありません。畠山国清が関東執事として権勢を振るいましたが、反逆者として敗死しました。これにて畠山家の命運は尽きたかに思われましたが、国清の弟・義深が許されて越前守護となり、義深の子・基国が明徳の乱で活躍したことで一挙に浮上し、6代管領を務めるほどになりました。その後も基国の子孫らが次々と管領に就任していきます。代々衛門督(えもんのかみ)や衛門佐(えもんのすけ)を務め、その唐名を「金吾」と呼ぶことから金吾家と呼ばれました。
 戦国時代には勢いを失い、最終的には江戸幕府に仕える高家となります。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集