日本人の物語00402【平安後期】平清盛と忠正の対立
さて、平氏の方も負けてはいません。久安2(1146)年に、忠盛の長男・平清盛(たいらのきよもり:1118~1181)が安芸守に昇進しました。安芸とは現在の広島県西部です。
順調に昇進を重ねていた清盛に、思わぬ不祥事が発生します。久安3(1147)年6月15日、祇園社の神人と平清盛の郎党が乱闘を起こし、多数の負傷者が発生したのです。この乱闘事件には「宝殿に平氏方の放った矢が当たってしまう」というおまけまで付きました。まさに神をも恐れぬ狼藉です。
祇園社の本寺である延暦寺は、この事件に激怒し、「平清盛を流罪にせよ。その父・忠盛も同罪であるから流罪にせよ」と訴え、強訴を始めます。
このとき、何事にも厳しい内大臣・藤原頼長は、「忠盛・清盛父子を流罪にすべき」と主張しました。ところが、頼長のあまりの厳格さに嫌気が差し始めていた鳥羽法皇は「罰金刑でよい」と軽い判決を下します。この恩情に感謝した清盛は、これより後、鳥羽法皇方につくようになりました。
さて、清盛は流罪を免れたものの、「祇園社の宝殿に矢を当てた」という一大不祥事は、清盛の評判を嫌でも落としていきました。悪いことに、清盛は忠盛の長男ではあるものの、正妻・池禅尼(いけのぜんに:1104~1164)の子ではありません。母の名すら伝わっていませんから、恐らくは身分の低い女性との間に産まれた子なのでしょう。(父親は平忠盛ではなく、白河法皇が女御に産ませた隠し子だった、という説もあり、後ほど紹介します。)
清盛の立場は悪化し、平氏内では弟・家盛(いえもり:1123?~1149)が重視されるようになりました。「平氏の家督を継ぐのは、家盛の方がよいのではないか」などという噂が囁かれるようになります。忠盛自身は長男・清盛をかわいがっていたようですが、忠盛の弟に当たる忠正(ただまさ:?~1156)は、清盛よりも家盛に期待し、忠盛とは反目するようになりました。
ところが、久安5(1149)年3月15日、期待された家盛は26歳の若さで病死してしまいます。これにより、清盛の後継者としての地位が確立しました。これ以降、忠正は清盛への反感から、崇徳上皇に接近していくのです。
仁平3(1153)年1月15日。平氏の棟梁・忠盛が死去しました。武士として初めて昇殿を許され、平氏の地位向上に貢献した忠盛の死を、平氏一門は大いに悲しみました。しかし忠盛を継いだ清盛こそが、こののち藤原摂関家をしのぐ、いや上皇をもしのぐ最高権力を手中に収めることとなるのです。
