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日本人の物語01690【戦国/東国/長享の乱】諏訪 惣領と大祝の内紛

長期連載ならではの、4年ぶりの伏線回収です。

 諏訪大社では上社大祝の身体には諏訪明神が宿ると信じられており、そのため上社大祝に就任した人物は諏訪領内から外へ出ることは厳禁とされていました。その理由は、古事記の「国譲り」の神話において、タケミカヅチがタケミナカタを諏訪で追い詰めて殺そうとしたときに、タケミナカタが
「今後この諏訪の地から外へは出ません」
と誓約した上で命乞いをしたためです(00087回参照)。そのタケミナカタが諏訪大社に祀られて諏訪明神となったわけですから、諏訪の外に出るわけにいかないのです。
 ちなみに年に1回、全国の神々が出雲に集まる月がありますね。神がいなくなるこの10月のことを「神無月(かんなづき)」と呼び、出雲では「神在月(かみありづき)」と呼ぶことは有名です。
 そして10月のことを「神在月」と呼ぶ地域が、出雲以外にもう一つあります。それが諏訪なのです。諏訪明神だけは出雲に集まることができず、諏訪に留まるというわけです。
 そういうわけで諏訪大祝は諏訪から出られないのですが、もし大祝と惣領を同一人物が務めていた場合、大きな支障が生じます。惣領たる者、領地を守るために外部との交渉事を行ったり、遠方の荘園を見回ったり、何かと移動の必要があるでしょう。そこで諏方家では、幼少期から青年期に大祝を務め、大祝を引退してから惣領となる慣例ができました。しばらくすると、逆に惣領を務めてから大祝を務めるようになりました。いずれにせよ、惣領と大祝は(就任順はともあれ)同一人物が両方経験するのが慣例だったのです。
 ところが、室町中期からその慣例が崩れることとなりました。そのきっかけは、諏方安芸守信満(すわあきのかみのぶみつ)・伊予守頼満(いよのかみよりみつ:?~1483)兄弟の対立でした。大祝を引退して惣領となった兄・信満と、大祝の座を信満から引き継いだ弟・頼満の対立が深まり、康正2/享徳5(1456)年には武力衝突へと発展してしまったのです。
 数年後には和睦を見たものの、感情的な対立はなかなか収まらなかったらしく、両者は同居を拒否して離れて暮らすことになりました。それまで惣領と大祝はともに諏訪大社上社前宮の神殿(長野県茅野市)に同居していたのですが、惣領・信満は自身の保有する所領・上原(長野県茅野市)に館を移してしまったのです。
 これ以降、惣領と大祝が分離する時代となりました。やがて惣領の座は信満の子・安芸守政満(あきのかみまさみつ:?~1483)が継ぎ、大祝の座は頼満の子・伊予守継満(いよのかみつぐみつ)が継ぎました。従兄弟同士ということになりますが、両者の関係は父の代よりさらに悪化していきました。つまり上社と下社の対立に加え、上社内での惣領と大祝の対立も始まってしまったのです。

宗教的権威である「大祝」と軍事的権威である「惣領」とでは、何となく私は大祝の方が上のような気がしていました。しかしこの戦乱の時代では、戦を指揮する惣領を上にしておいた方がよさそうですね。

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