日本人の物語01577【室町/西国/応仁の乱】伯耆・因幡守護頓死
まとめていて思ったのですが、由良という地名は全国あちこちにありますね。今回登場するのは鳥取県です。
一時は相当不利な状況に追い込まれた東軍でしたが、徐々に勢力を盛り返しています。その理由は、地方からじわりじわりと西軍を追い詰めたためでしょう。
西軍の首を絞めるために勝元が行った工作をまとめると次のとおりです。
〇周防の大内道頓に反乱を起こさせた。
〇越前の朝倉孝景を寝返らせ、挙兵させた。
〇近江の多賀高忠を支援して、六角高頼軍を追放させた。
特に西軍最強武将たる朝倉孝景の寝返りは大きな反響を呼びました。孝景は前述のとおり文明3(1471)年7月21日に甲斐方に敗れたものの、8月24日の新庄・鯖江合戦(福井県鯖江市)では甲斐方に勝利し、雪辱を晴らしています。これ以降、朝倉孝景は越前の大部分を実効支配することとなりました。
なお、このとき孝景は自ら守護を名乗ることなく斯波義寛を主君と仰いでいました。01574回で述べたとおり、「孝景が守護に補任された」とみるのは無理があるようです。
西軍武将たちは、領国で自分の親族や守護代たちが独自の動きを始めたことを警戒し、徐々に領国に戻りたいと考えるようになりました。事実、西軍方で伯耆守護を務めていた山名教之は、赤松が伯耆の領地を狙っていることを知って、
・長男の豊之(とよゆき:?~1471)を伯耆守護に
・次男の豊氏(とようじ:?~1471?)を因幡守護に
それぞれ任命し、下向させています。
しかし現地勢力の勢いは、山名教之の予想をはるかに超えていました。
教之が送り込んだ豊之は、9月18日に由良郷(鳥取県北栄町)で家臣に謀反を起こされ殺害されました。その僅か3日後には山名軍が出雲の尼子清貞と戦って大敗を喫しており、豊之暗殺は尼子方に寝返った家臣による工作だった可能性があります。
豊氏についても、時期不明ながら不慮の戦死を遂げたと記録されています。その家督を継いだ豊氏の子の智房(ともふさ? ちぼう?)という人物が、東軍に寝返ったとの記録もあります。中世史学者の伊藤大貴氏は、
・智房という名は幼名とみられること
・伯耆と因幡でほぼ同時に守護が不慮の死を遂げていること
から、
「豊氏の死もまた東軍方に寝返ろうと考えた家臣たちの謀反によるものではないか」
と推理しています。
「ともふさ」と読むのなら実名ですが、山名家で「智」や「房」を実名に使う文化がないようなので、多分「ちぼう」という幼名なのでしょう。
