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日本人の物語01488【室町/西国/大乱前夜】都聞殺害事件

室町・戦国の仏教界は物騒過ぎます。

 寛正3(1462)年7月13日。相国寺の都聞(つうぶん:寺院内で経理や荘園経営など会計を担当する幹部)を務める高僧・乾嘉(けんか:?~1462)が、延暦寺の僧兵に殺害されるという衝撃的事件が起こりました。その原因は、相国寺が延暦寺の財政を圧迫していたことにありました。
 そもそも延暦寺は、平安時代には莫大な荘園から得られる収入で富をなしていました。しかし室町幕府が新興仏教である臨済宗を支援し、五山制度が整備されるに及び、旧勢力である延暦寺は徐々に勢いを失っていきました。
 地方にも五山の寺の出張所たる別院が次々と作られ、周りの村々の農民も
「幕府と近しい関係にある五山の寺に年貢を納めた方が良いのでは」
と考え、延暦寺の寺領は次々と五山に奪われていきました。五山の中でも特に相国寺は近江・加賀に触手を伸ばし、延暦寺と競合することが多かったのです。
 困った延暦寺は、文安元(1444)年4月17日、たまたま日吉祭の上卿(しょうけい:進行役)として坂本にやって来た万里小路時房の宿所を夜中に訪れ、陳情書を手渡しました。そこにはこう書かれていました。
「謹んで申し上げる。丹波国の光明寺は代々当山の末寺であったが、その寺領を相国寺の都聞である飯尾賀州入道(いのおがしゅうにゅうどう)が無理やり押領してしまった。極悪非道の行為である。この旨、なにとぞ帝にお聞き届けいただきたい」
 これを受け取った時房は後花園天皇に取り次いだものの、天皇は
「山訴に依るべからず。各々理非に依るべし」
と一蹴しました。つまり、公卿に直接訴えるのではなく正規の裁判を起こすべきだというわけです。幕府側でも管領・畠山持国は
「対面に及ばず」
と言って何らの措置をも取りませんでした。
 幕府はなぜ延暦寺を冷遇し、五山を厚遇したのかというと、まさに幕府財政が五山の富に頼りきりだったためです。全国的な飢饉の中で盗賊がはびこり、幕府ですら地方の領地から京まで安全に年貢を運搬することができなくなっていました。幕府は五山から莫大な支援金を得てどうにか財政を成立させていたのです。
 朝廷と幕府に見捨てられ、思い余った延暦寺はこの16年後の寛正3(1462)年7月13日、非合法な手段に出ました。相国寺の都聞である乾嘉が加賀の寺領を視察し、その帰途に坂本を通過していたとき、延暦寺の僧兵がこれを襲撃して殺害したのです。
 新興寺院と旧仏教との間でかくも対立が深刻化していたとは驚きです。

天皇も結構延暦寺に冷たいですね。

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