日本人の物語01227【南北朝最末期】明徳の乱 反逆決意
大体1回あたり1000~1200文字程度で連載しているので、薄めの文庫本10冊分くらい書いているようです。最終的には全100巻になるわけですね。
『ローマ人の物語』の分量を超えられたら感慨深いだろうなあ、と思います。
山名満幸は怒りにまかせて氏清に迫ります。
「叔父上、近頃の将軍のなさりようは、事に触れて山名を滅ぼそうとするものではありませんか。初めは我らをそそのかして時熙らを討たせ、今度は掌を返すように奴らをそそのかして私を討たせようとしています。私の次は叔父上の番です。我々一族が団結して攻め上れば敵を倒すのは容易です。土岐・富樫といった将軍を快く思っていない者たちも同心してくれるでしょう。将軍への謀反が聞こえが悪いということならば、細川への恨みという名目でもよいではありませんか」
満幸の熱心な説得に、氏清も折れて反逆を決意しました。氏清はさらに次兄の義理も味方に引き込もうと、紀伊に二度も赴いて説得を重ね、渋っていた義理を同意させました。
元中8/明徳2(1391)年12月24日。山名満幸は数千の軍を率いて、丹後から丹波へと進撃を始めました。さらに氏清は、一方的に朝敵となってしまうことを恐れて南朝方に連絡を取り、後亀山天皇から錦の御旗をもらっていました。あくまで正義は我々にあるとの意思表示です。
それを知った義満の側近らは、
「勅命を得て山名軍と対決するべきです」
と意見具申しました。向こうが朝廷の権威を傘に着るならば、こちらも北朝方から勅命をもらおうというわけです。ところが義満はあくまで
「山名は当家の下僕に過ぎぬ。下僕を誅するのになぜ勅命が必要であろうか」
と述べ、勅命を得ようとしませんでした。さらに義満は、朝敵退治の際に身につける小袖を着ず、戦中ずっと烏帽子に直垂のみの軽装で通しました。あくまで敵は格下であるとの印象を見せつけるためでしょう。
12月25日夜、幕府方の評定が始まりました。参上したのは細川頼之・頼元、畠山基国(はたけやまもとくに:1352~1406)、今川仲秋・泰範、一色詮範(いっしきあきのり:1340?~1406)、大内義弘、赤松義則、京極高詮(きょうごくたかのり:1352~1401)といった有力守護オールスターズといった面々です。さらに山名の味方だったはずの斯波義将の嫡男・義重(よししげ:1371~1418)も加わっており、さすがの斯波派も将軍を裏切ることはできなかったようです。
このとき、新設したばかりの将軍直轄の御馬廻(おうままわり)と呼ばれる軍団もまた集まっていました。かねてより将軍義満は将軍直轄の部隊がないことに懸念を示し、御馬廻という軍団を編成していたのです。これは後に「奉公衆」と呼ばれるようになるのですが、彼らにとってはこの明徳の乱における出撃が初陣でした。
