日本人の物語01194【南北朝末期】康暦の政変 鎌倉府の反逆
何気なく書いていますが「天授」という元号はなかなかすごいですね。近年では見られない元号です。
いよいよ頼之政権が終焉を迎える「康暦の政変」について取り上げなければなりません。その発端は、天授5/永和5(1379)年2月20日、細川頼之を討とうとの計画が発覚したところから始まります。頼之暗殺計画を企画したのは斯波義将・土岐頼康・京極高秀といった有力武将たちでした。
計画を知った頼之は敵を増やし過ぎたことを自覚し、管領を辞して四国に帰ろうとしますが、義満は頼之を翻意させようと必死に慰留します。
2月22日。義満は頼之討伐を辞めるよう指示するべく、斯波義将・土岐頼康・京極高秀を呼び出しました。このとき斯波義将は呼び出しに応じましたが、土岐頼康は美濃へ、京極高秀は近江へとそれぞれ帰ってしまったため、義満は両者の討伐を決意しました。土岐頼康討伐には赤松義則(あかまつよしのり:1358~1427)が、京極高秀討伐には六角満高(ろっかくみつたか:?~1416)が、それぞれ派遣されます。
さらに義満は、鎌倉府にも軍勢の催促状を送りました。
ところが鎌倉府は全く別の思惑で動いていました。2代鎌倉公方・足利氏満は19歳に成長しており、そろそろ自分の意思で動き始める年齢です。氏満は父・基氏と同じく徹底的な直義党であり、上杉能憲の補佐を受けて鎌倉府を運営していました。能憲は観応の擾乱においては「反乱軍」であったにもかかわらず、その後は鎌倉公方を支える関東管領として東国運営に当たった人物ですから、その能憲の薫陶を受けた氏満は、尊氏党の流れを組む将軍義満に反感を抱いているわけです。
さて、将軍義満からの土岐・京極討伐への協力要請を受け取った氏満は、あろうことか土岐・京極の味方をして幕府を滅ぼそうと画策します。
ところが、この頃には上杉能憲は既に病死しており、関東管領職は従弟の朝房を経て、弟の憲春(のりはる:?~1379)へと引き継がれていました。憲春は能憲よりは穏健な人物で、氏満に謀反をやめるよう薦め、これが聞き入れられないと知るや、3月7日に報恩寺で自害してしまいます。
空席となった関東管領には憲春の弟の憲方(のりかた:1335~1394)が就任しましたが、さすがの氏満も憲春の諫死が余程効いたらしく、幕府への反逆は諦めたようです。
3月11日、将軍義満からの要請に対し、氏満は上杉憲方らを派遣する形で応えました。
ところが土岐・京極討伐は肩透かしに終わりました。義満に面会を乞うた斯波義将が両者の赦免を願い出た結果、3月18日には土岐が、4月13日には京極が、それぞれ赦免されたのです。義満としても、最有力守護の一人である斯波の意見を無視できなかったのでしょう。
あっという間に形成は逆転し、ここからは義満・頼之方が追い詰められていきます。
