日本人の物語00244【平安前期】平安京遷都*
延暦13(794)年11月8日。和気清麻呂の建議により、平安京に遷都されました。
平安京は東西に約4.5㎞、南北に約5.2㎞のきれいな長方形をしています。唐の長安を手本として、碁盤の目のように道を整備していく「条坊制(じょうぼうせい)」という手法で作られました。ちなみに平城京は、東西約4.3㎞(外京を含めると約6㎞)、南北約5㎞の大きさですから、平安京は平城京を一回り大きくしたものといえます。
天皇の住まう区域を含め役人たちが公務をする区域は大内裏(だいだいり)と呼ばれ、長方形の上部(つまり北部)にありました。大内裏の中にある役所の建物群を朝堂院(ちょうどういん)と呼びます。朝堂院への入口となる正門は、平城京では朱雀門(すざくもん)と呼ばれていましたが、平安京では応天門(おうてんもん)と呼ばれます。
現在、平安神宮の正門は応天門を8分の5スケールで再現したものとなっています。8分の5スケールでも観光客を驚かせるに十分な巨大さです。
朝堂院の北端には、大極殿(だいごくでん)と呼ばれる巨大な建物があります。これは朝廷内の重要な儀式が行われるところです。当初は、天皇が政務を行う場所としても使われていましたが、徐々に天皇が大極殿に出かける頻度は減り、やがては「大極殿に行幸する」などという表現すら使われるようになったそうです。「行幸(ぎょうこう)」とは本来は天皇が遠方に出かけることを意味する言葉なのですが、内裏から目と鼻の先にある大極殿に「行幸」するとは、何とも大袈裟な表現ですね。
大内裏から南に一直線に朱雀大路(すざくおおじ)という幅広い道が走ります。幅は約70mで、当時としては驚くべき大きさでした。そして朱雀大路の南端には、巨大な羅城門(らじょうもん)がありました。外国の使節を迎える際に、都の入口でその威容を見せつけて国威を示そうとしたのでしょう。この羅城門は羅生門(らしょうもん)とも呼ばれ、芥川龍之介の小説のタイトルとしても知られています。
大内裏から南向きに立ったときに、右に見える部分を「右京」、左に見える部分を「左京」と呼びます。つまり、東側が左京で、西側が右京なのです。北が上になっている地図を見慣れている私たちにとっては、まるで逆なのです。ややこしいですね。
さて、現在Googleマップで「平安宮朝堂院大極殿跡」を調べると、京都市の中心街からだいぶ西に離れた場所が出てきます。つまり、都の中心地は遷都当初から東の方に移動していったのです。これはなぜかというと、西部は低湿地のため徐々に住みづらくなり、10世紀には完全に荒廃してしまったためです。そのため、当初「左京」と呼ばれていた東部が現在の京都市の中心部となったのです。
現在、「京都市平安京創生館」という博物館で、平安京の千分の一の復元模型を見学することができます。4.5m×5.2mの圧倒的サイズの模型で、考古学、歴史学、地理学、建築学等の研究者らが2年5ヶ月も議論して完成させたものです。一見の価値があるでしょう。

