日本人の物語00383【平安後期】藤原師通、仏罰に死す
義家・義綱兄弟の関係が悪化する中、義綱がつるんだ相手が、藤原師実の嫡子・師通(もろみち:1062~1099)でした。同年、師実は関白職を子の師通に譲り、師通の権勢もまた高まっているところでした。
藤原師通は、『本朝世紀』に
「好みて学び倦まず」(学問が好きで、学ぶことに飽きなかった)
「百家に通覧せざるなし」(博識で、知らないことはない)
と書かれているほどの傑出した人物で、義綱が組む相手として一見理想的に見えました。
しかし、師通は鼻持ちならない性格で、敵を作りやすい男でした。師通は堀河天皇とのみ協調し、事あるごとに白河上皇を無視します。
「退位した帝に対して臣下の礼をとる必要はない」
などと放言し、白河上皇の前を下車せずに素通りしたというエピソードすらあります。このとき白河上皇はまだ院政を開始していないとはいえ、堀河天皇はまだ15歳ですから、朝廷の最大の実力者は白河上皇のはずです。その上皇に対してあまりにひどい態度です。
嘉保2(1095)年。師通は源義綱に対し、延暦寺・日吉社の不法な荘園を取り上げるよう命じました。
延暦寺・日吉社が政府の意向に従わないのは以前からのことで、これまでの為政者たちはこれを見過ごしてきたのに、強気な師通は武力で従わせようとしたわけです。義綱はこの危険な賭けに乗せられてしまいます。
10月24日。義綱は抵抗する僧兵と戦い、僧兵側に死者が発生してしまいました。延暦寺・日吉社は強く抗議し、義綱の流罪を求めて強訴を始めます。
師通はやむなく陣定(じんのさだめ:公卿が集まる会議)を招集します。陣定において、父・師実たちは強気な師通を諫めようとしますが、師通は誰の意見も聞かず、義綱に僧兵への再攻撃を命じることを強引に決めてしまいました。あまりにも強気ですね。
この再攻撃により僧兵側に再び負傷者が発生し、僧兵らは堀河天皇と師通を呪詛するようになります。
その後、嘉保3(1096)年11月24日には大地震が、永長2(1097)年1月21日は大火災が発生し、さらに承徳3(1099)年6月28日には、師通が36歳の若さで死去しました。延暦寺の僧らは「仏罰が当たったのだ」と大いに盛り上がりました。
この師通の死は、後世の武士らが僧兵を恐れるようになるきっかけとなったと言われています。
師通の死により、師通とつるんでいた源義綱は完全に失脚し、味方を失いました。こうして、兄の義家が再び繁栄することとなりました。
