見出し画像

日本人の物語01348【室町/義教期】持氏擁立計画

持氏はめちゃくちゃな人物なのに、なぜか関東には一定の味方を有しているんですよね。不思議です。

 正長元(1428)年8月3日。将軍不在の状況が4ヶ月以上続く中、「持氏が上洛するらしい」との噂が都を駆け巡りました。持氏はこの頃、里見家基(さとみいえもと)を派遣して山入祐義・依上宗義兄弟が立て籠もる依上城(茨城県大子町)を陥落させ、順調に反乱を鎮圧していました。
 10月初旬には、幕府が鎌倉府に遣わした使者が、途中で盗賊に襲われて京に逃げ帰ってきました。偶然かもしれませんが、当然幕府内では「持氏の差し金ではないか」と考える人が出てきます。
 10月16日には、さらにキナ臭い情報が上がってきました。熱田大宮司の野田某から満済にタレ込みがあり、
「当家の家臣の吉川という者が、(後小松)上皇に対して持氏を将軍に任命するよう申請したとの情報があり、吉川を手討ちにしようとしたが逃亡されてしまった」
というのです。この噂はさすがに捨て置けないので、満済はこれを義教に報告しました。後小松上皇が持氏将軍擁立に関わっていたとしたら一大事です。
 同じく10月には、長尾邦景が「持氏から味方になるよう誘われた」と幕府に通報しました。長尾邦景といえば、かつて義持が持氏派ではないかと疑った越後守護代ですが、こうした情報をしっかり幕府に上げてくるところを見ると、そうでもないのでしょう。
 10月22日に満済は万里小路時房と密談に及びました。満済の日記に「注し置く(しるしおく)に及ばず」とあり、時房の日記にも「口外に及ばざるものなり」とあるので、余程の密談のようですが、恐らく持氏将軍擁立計画にどう対処するか話し合ったと思われます。
 話し合った結果、幕府は後小松上皇に圧力をかけることになったようです。というのも、中原師郷(なかはらのもろさと:1387~1460)の日記『師郷記』と中山定親の日記『薩戒記』によると、11月9日に武士が仙洞御所(上皇の住居)を取り囲んだというのです。持氏を将軍にしようとの動きを封じるためでしょうが、残念ながらこの日の日記は満済・時房とも残存していません。
 上皇の動きを封じたところで、今度は南奥(福島県)情勢が幕府・鎌倉府関係に複雑に絡んできました。12月、白川城(福島県白河市)を拠点とする幕府派の白河結城氏朝が、三芦城(みよしじょう:福島県石川町)を拠点とする持氏派の石川義光(いしかわよしみつ:?~1328)を殺害したのです。
 命からがら逃れた義光の嫡男・石川持光(いしかわもちみつ)は、元稲村御所の満貞を頼って持氏派につきました。一方、白河結城氏朝は篠川御所満直を頼って幕府とつながります。
 幕府と鎌倉府の代理戦争が南奥で発生しそうな状況です。この後、両者は何年も睨み合ったまま武力衝突は起こらずに済みますが、後に結城合戦(後述)が発生した際に戦うこととなります。

茨城県大子町(だいごまち)が出てきました。袋田の滝で有名な町ですね。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集