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日本人の物語00391【平安後期】2代基衡の家督継承

 崇徳天皇の即位からまもなくの大治3(1128)年7月13日、東北の覇者・藤原清衡が72歳で病死したことを紹介しなければなりません。清衡といえば、後三年の役で勝利し、東北を手中に収めた奥州藤原氏初代として知られる人物ですね。
 清衡の死後、その家督争いが起こります。
 翌々年に当たる大治5(1130)年、清衡の長男・惟常(これつね:?~1130)と次男・基衡(もとひら:1105?~1157)とが武力衝突を起こしたのです。
 惟常の母は清原氏で、基衡の母は安倍氏ですから、あの後三年の役のときと同様、清原氏と安倍氏の主導権争いとみてよいでしょう。家臣団も真っ二つに割れての戦闘だったと考えられます。
 6月8日、基衡が惟常の居館を攻めたため、惟常は小舟に乗って二十余人を引き連れて平泉を脱出しました。まずは越後国に落ち延びて、他の弟と連携して反撃に転じようとします。
 しかし基衡の素早さは予想を上回っていました。基衡は陸路で兵を追跡させており、逆風をくらって小舟が陸地に押し戻された所で追いつき、惟常は斬られました。
 こうして家督は2代基衡が継承することとなりました。
 基衡は奥州藤原氏4代の中でも格段にエピソードの少ない人物ですが、『古事談』にはこんな話が載っています。
 藤原師綱(ふじわらのもろつな:?~1172)が陸奥守として派遣されて来たとき、陸奥国司は国内の農地がどの程度あるのか、ほとんど把握できていませんでした。そこで師綱は検地を執り行おうとします。
 しかし、陸奥国内の最大の領主である基衡はこれを拒否し、妨害を図ります。
 師綱が帝の宣旨をもらって強引に農地に入ろうとすると、基衡の命令を受けた家臣・佐藤季春(さとうすえはる:?~1142)は矢を射かけ、遂に武力衝突が始まりました。
 師綱側に多くの負傷者が出たところで、基衡は朝廷を敵に回したことが恐ろしくなり(今更?)、季春に
「これからどうしたものか」
と相談します。すると季春は、
「あなた様は何も知らなかったことにして、私の首を差し出せばよいのです」
と答え、従容と死に臨もうとします。基衡は泣く泣く季春を犯人として捕らえ、国司に差し出しました。
 季春の死刑が決まった後、基衡は季春の助命嘆願のため大量の砂金を国司に送りつけました。しかし師綱はこうした賄賂には心を動かさず、季春を処刑してしまいます。
 基衡は家臣思いな人物ではありますが、戦略家としては今一つだった印象を受けますね。

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