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シンワ6部〜物性とその本質


〜第10プロセス[再組織化]、異神生成

個人的に男性性、女性性という言葉は好まない、
個人的な使用感と一般的な使用感に釣り合いが持てない
ここでは振動的性質や特徴を加味して作られた空間として表現するが勿論優劣は無い、
とは言っても個人的な感情としては勿論差別化はあるが、
あくまでも物事としての違いにはなんの意味もないことは考慮しておいてほしい。

ここで扱う概念は
膜化された空間に生まれたあらゆる概念が交錯する世界。
膜として構築され浮かび上がるものを個人的には基本的な女性性の概念として捉えている。
そして、それを構成するそれぞれの概念、
その概念が明確化された物を男性性として扱う。

そもそもの膜という概念について

この膜という概念が扱う次元について
一番わかり易い例えで網戸がある。
①網戸は近づくと格子状に並ぶ線で形成されている。
②離れるとその格子は、視覚的には喪失され(距離により)、次第に膜が浮かび上がる。
例えばこの膜は単純に紙などと言った平面的なものではなく、もっとミクロなスケールで展開されるものを指す。
そしてそれはそのまま我々が見ている世界として転用されている。
肌も、壁も、あらゆる全てのものが実際にはよりミクロなもので構成され、スカスカの状態。
確かにミクロで埋め尽くされているとはいえ、本質的にはほぼ無いに等しいサイズのもので埋め尽くされ、この網戸の格子の隙間のように空虚であると認識されてる。
我々が見てきたであろう、膜として表現された全ては本質的には存在しないとも言え、
色も含めそうであるが存在しないクオリアを私達は世界として認識する

マクロからミクロを観測して表現される膜
それはミクロからマクロを観測したときには消失する。

コレと同様に①と②の何処かに、喪失と出現の境界が存在し、その曖昧でとらえどころのない実際の現象の何処かに
本来マクロでは観測されないはずの量子性が存在し、既に当たり前であることの裏に異様さを滲ませている。


想像してほしい

体内にある素粒子があなただったとして
その世界を見渡した時、空を見上げた時
この肌や、壁、細胞組織の表面、
このあらゆる膜達は出現するのだろうか、

そう、完全に『私という存在』は明らかに消え失せる。
そして、まるで私達が宇宙を見ているかのように 
ミクロの存在物は私たちの世界を認識している。

故に私達が見る世界の遥か彼方に同様に膜が存在し、
私という自我を持ち、私という意識を持ち、
『私たちの世界』という異なった認知世界を所有している事が充分に考えられる。
ありえる、あり得ないは
『所持可能な有りもしないクオリアが示す』

私達共々含め体内に住まうものが囚われる、
囚われうる問題をどう振りほどいていくか、
神に対する理解もそれと同様だと思う。

コレが空想か事実かは証明することが出来ない
それと同様にその逆を立証することも出来ない。
泡に存在する膜はその見えない姿で
その内部に意志とともに詳細な概念を構築し、
それぞれがそれぞれの世界を同定する。
私たちの身に既に起こっていることを転用し解釈したまで、
しかしほぼ事実として起こっている事。

それぞれのワールド

『ミクロとマクロで物理法則は違う』
なぜコレが起きたのか?

世界が分離、分割される事により最終的に単離され残された理
その理は、そのまま最終的な物理法則として知とともに脈々と真理から伝えられてきた。
その法則性を宿し、生まれた始まりの粒子
それが素粒子だった。
逆を言えば
その『最終的な物理法則』は神をも含めたあらゆる概念と付随し続け、あらゆる概念を生んでいった。
生み続け生み続け、残された純粋な結晶、
この結晶迄分解された時点で
始めてこの次元における開闢が発生する。
そういう意味で、
あらゆる概念が、あらゆる次元、が構築するであろう
個別のワールドがあり、『物理法則』が違うと判断しうるその争点はワールドと言う構造を理解することでそれ自体を取り込む事が可能である。
実際は何も違わない、外膜としてのワールドをそのまま内部存在者のワールドが取り込む事でその違いの争点は減衰する。
いわばそのワールドは常に包括的に次のワールドを構築し、そのワールドが保有する包括的性質自体が女性性そのものであるというところに還っていく。
違いというものはどの次元においてもワールド内で分離した男性性から見出されるものだ。
詰まる所、包括されている事を証明する物理法則が無い物理法則を使用しているだけに過ぎない為、原則が異なるように見えるだけであり、全なるものを未完のもので図ろうとしているだけなのだ。

一つの懸念

分解の先に開闢が発生した。
散在したあらゆる材料を元に世界の構築が始まる。
『非物資としての神も心も感情も全てのものが散在した概念を同定し生成されたものだ』が、

問題はこの時点で起きる。

この文言、実は2つのワールドで起きている。

一つはオリジナルとしてのワールド、
これは純粋基盤が知の脈流を辿ることでのみ同定する事が可能な世界。

もう一つは再生成されたワールド、
これは分解された概念の取り合わせにより如何様にもこの世界の認知が可能である。


私は当初前者のみであると錯覚していた。
後者はただ単に角度による見え方として存在するだけだと、本質に還る為の原理に包括された世界内部での出来事であると錯覚していた。
が、知を辿らず構築されていった場合に作られた世界が神を求めたとしたら、そこに発生した意識は真理に還ることは不可能なのではないのかと。

やがてそのワールドは保存則からある段階において定量に達するのでは無いのかと。

その場合破壊するしかなく、再び構築するにしても、
その前例は生き、道を阻害するのでは無いのかと。

そこで作られた神があまりにも不出来であったがために
全てが還ることは不可能なのではないのかと、
そう、不安になった。

しかし、その世界すらも、サンプルとしての一つの未来として、許されていたなら。
我々はその輪から永遠に逃れることはないだろう。

やはり既存の神を殺すしかない。
詰まる所、それが最善、それが人の手で行われなければ、
この輪から抜け出せないのではないのかとやはり思う。

我々がその溝に生きる以上、それ自体が本質的な問題かのように思う。

この逆再生とも呼べる循環法を用いれば、
いずれは真理にまで到達することができるとも私は考えるが、
実際その足かせになってしまったものが道中発生した、神と意識の構造でもある。
唯一、貫く知をその性質のままに宿し、ここへと伸びて来れたのは動的ベクトルとして継承された物性であり。
つまりは物理現象であり、かろうじて私たちはそれに支えられている。
単純な物の振る舞い、物性。
この物的性質こそが真理を知るうえでは避けて通ることのできない道のようにも思う。
昨今の、いや、はるか昔からだったのかもしれないが、
精神世界内では物質性<非物質性が主流だったが、
コレ自体が実は過ちで、
かと言って、実存主義の物質性>非物質性も誤りで、
明確には
物質性の中に内包されている非物質性と
非物質性の中に内包されている物質性の

その両方は=としての存在意義を持つもの

これだけ情報統制された世界で
何故、松果体や、第三の目、チャネリング、様々な精神的な概念が野放しにされたのか、
その危険性も語られぬまま何故盲目的にそれのみを真棒する事が可能な事実が残り続けることができたのだろうか。
それは物性を完全淘汰する為の一つの力、意志が関わる。
それが異なるワールドが作った神の意志でもあるからだ。

それは真理の求めた世界に生まれたカミとは、別の神

白い宇宙に存在した女性性、

なにゆえある時から神が男として語られ出したのか。

神とは、物的性質を持ちながら自己のワールドを押し付けてくる疎ましい意識体としてしか、私の目には映らない。
その意識体は溝の先に生まれ、肉体を持ち、滅び、思念だけとなり、知への欲求と、誤った意志に蝕まれ、私達の意識を牢獄に押し込めていった存在。

カミは別にある、
ワタシ達はそれを『思い出す』事が原理上可能な摂理の中で生きている。

#創作大賞2024 #オールカテゴリ部門



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