キチ、心身抜粋と無変換
色々言われてはいる。
無にして、真にして、還にして、現にして、
あらゆる存在にして、概念にして、・・・
そのどの並びに対しても、変化や、到達、理解、
あらゆる真実はこの肉体の何処かに、
あらゆる真実はその物体の何処かに、
あらゆる真実はその存在の何処かに、
そうある、昔から、
そのある、変化せずしてある、それは、
我々が何かを知り、理解を深めたとして、
そのものの真実は変化しうるか、
変化する訳もなく、その理屈など存在するはずも無く。
つまりは我々が何かに至ったとして、
あるべきところに帰るのはその至った部分で有り
至った部分とは、そもそもそこから生まれ、
そこに只々存在し、移ることなく、変化する事無く、
そこに存在し続ける部分なので有る。
我々が何に至ろうと、我々が還る場所に変化は無い、
我々は、あらゆる『者』で造られている。
我々が会話を行なっているわけでは無い、
我々が意識において、変化し、会話を行なっているのでは無い。
我々の中にあるその者達が我々の中を駆け上がり
言葉を交わしている。
心身の中にある様々な事は変換されることなく
抜粋され表れているに過ぎない。
我々は何も変わることがそもそも不可能なのだ。
この肉体は、肉体である前にそもそも、
別の何かだったモノで、
物質的に見ても分解可能な何かであり、
精神的にも分解可能なモノである。
そもそも存在している、あらゆる全ての事が、
この肉体の裏に有り、
我々はそこから抜粋した事を語り合うに過ぎない。
ならば、
我々の肉体は上がる事も下がる事もない。
我々の言葉は上がる事も下がる事もない。
我々の存在は上がる事も下がる事もなく、
只、またあった、地に帰り、落ち着くだけなのだ。
又そこで眠りにつくだけで有り。
我々の言葉は全て、我々の会話は全て、我々の想いは全て、我々の意、感、情、あらゆる、事の全ては、
全て思い出。
この世界の濃度は、
変化により訪れるのではなく、
そもそも存在したあらゆる色彩をそのまま抜粋し、
彩られた絵画なのである。
無論真実は何も変わらなかったが、
この世界において、どの色を使いどのようなコントラストへと変化させるかと言う意味では、
この現実の色彩の千差万別さは、変化しうるが、
還る帰地においては何も変わりようがない、
そこがそもそも真実だからこそ、
ソコはやはり変わらない。
我々の中にあるそれぞれの者は元あった底のソコに還る。
それは神ですら、
あらゆる神ですら知らない。
神はソコからコッチに至る道中に生まれた者であるが故にだ。
故に神とは、やはり、我々の中にあるあらゆる者の一部に過ぎないのだ。
われわれが神を語るとき、そもそも存在するものの中の一部が駆け上がってきたに過ぎない、故に神はモノである前にやはり、コト的でしかない、
神も例外ではなく、コトは駆け上がり者になり、
それは考えてみればが当然のことでもあるのだ。
コレはいわゆる精神論ではないだろう。
おそらく当然の物理現象的に起きている事である。
ここに書いた全ては、
モノゴトとして矛盾なく唯一片付いている、、
きれいに整って流れている。
ゆえにワタシは・・・である。
キチとは正常に狂うことをいう。
正統に、真っ当に壊れているからして、
病院は不要なのである。
