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まちは火の海、ぢゃんがら踊り

Facebook投稿(2017年9月12日付)の転載です。


昨年から「盆踊り」について考えることが多くなった。磐城地方を中心に分布する「じゃんがら念仏踊り」(以下、ジャンガラ)についても「盆踊り」という観点から少々思うことがある。バリエーションがあるので一概には言えないが、煩雑になることを避け、簡潔に記したい。


太鼓を打っているのは誰なのか


私が「横川」のジャンガラに入れていただいて4年。太鼓に触らせてもらって3年になった。当然ながら実際に体を動かしてみて初めて分かることがある。大変に幸福なことだ。

ジャンガラの撥(ばち)には少々変わった装飾が施されている。撥先に兎の毛をまとい、先端には馬の尻尾をあしらう。毛はどちらも白い。(トップ画像参照)

ジャンガラの「太鼓打ち」は単に太鼓を演奏するだけではなく様々な所作(パフォーマンス)を行う。横川ではその際の腕の振りを「しな振り」などと呼ぶ。

装飾は単に「しな振り」を華やかに見せる為のものだと思っていたので、できるだけ大きく優雅に振れば良いと考えていたのだが、いざ稽古してみると「振りの感じが全く違う」と真っ先にそこから否定された。

私は先端の毛先までを翼のように考え、翼全体が映えるように振ろうとしていたのだが、それは全くの見当違いなのである。太鼓を打っている時以外で、純粋に「振付け」となっている場合、ジャンガラの多くの団体では、基本的に撥のお尻(手元)が先行するように振る。装飾部分だけを見れば、兎の毛が先行し、馬の尻尾がそれについていく格好だ。

撥は、打ち手の身体にまとわりつくように振られる。左右に上下にフワフワと往復し、時にはくるくると軽やかに回転する。そしてこれも大変に重要なのだが、「太鼓打ち」は撥を振る時、基本的に撥先を目で追っていなければならない。

芸であるから疑問を持つこともなく3年精進してきたが、改めて考えると「太鼓打ち」は自分の存在を消しているかのように思える。一人の演者として観衆に見栄を切るようなことはなく、基本的に腰を屈めて伏し目がちであり、表情を作ることもない。そして撥を振り始めると、やにわにそれを目で追うのである。

ここで子供の「ごっご遊び」を思い出してみる。おもちゃの飛行機を手に持って飛ばしている子供は、その機体を見つめ続けているに違いない。また人形をしゃべらせている子供も、やはりそれを見つめ続けているだろう。何が言いたいのかというと、つまり「太鼓打ち」は、装飾部分を何かに見立て、それを演じているのではないかということだ。

では、兎の毛と馬の尻尾は何を表しているのだろう。結論を言ってしまうと、私はそれを「人魂」なのではないかと思っている。不思議な装飾は「人魂」つまり「死者」だ。

ジャンガラは「念仏踊り」の一種であるが、現在の形に至るまでは様々な要素が混入している。どこかの段階で甚句(7、7、7、5の形式の歌謡)による手踊りが加わり、大正頃までは盆踊りと云えばジャンガラのことであった。

この列島では、死者は盆彼岸が来る毎に帰って来て、古い由緒の人たちと交わると考えられてきた。盆踊りはその死者を慰めるものとされているが、秋田県西馬音内の亡者踊りのように、死者と一体化して踊るものもある。私はそこにもジャンガラを考えるヒントを見る。

太鼓を打っているのは「人魂(死者)」なのだ。それが私の妄想である。

鳥山石燕『今昔画図続百鬼』より「人魂」
出典:ウィキメディア・コモンズ


磐城の3つの「火」



こんなことを考えるには伏線がある。実は私は、磐城を「火」の国だと思っている。以下、磐城の3つの「火」について記したい。

①「龍燈」りゅうとう


「龍燈」とは日本各地に伝わる怪火であるが、わが磐城地方では閼伽井嶽の龍燈が特に有名である。それを見るための見物台までが置かれていた。その様子は、水戸藩の地理学者・長久保赤水の「東奥紀行」(1792年)に詳しいが、日暮れの頃、海上に現れた火が夏井川を遡り、閼伽井嶽を登って、大杉の梢に留まるのだという。

赤松宗旦の『勿記』(1856年)には以下の内容が伝聞として記されている。「多少はあるが龍燈は毎晩現われ、二つずつ並んでのぼってくる。薬師堂の側に東屋があって、そこからしか見えない。見物人たちはこれを見るため寺に泊まった」

そしてこの「龍燈」は、夏井川-閼伽井嶽だけに留まる話ではない。藤原川-湯ノ岳にも同様の現象が見られ、湯ノ岳山頂付近には、やはり「お龍燈場」という「龍燈」を見るための場所があった。これは現在も跡地が残り、湯ノ岳お山掛けの木戸の一つとして参拝が続けられている。そのほか詳細は省くが、鮫川-明神山、入遠野川-往生山、小名川-観音作、また江名の諏訪神社裏や観音山にも同様の話が残る。

竜斎閑人正澄画『狂歌百物語』より「竜燈」
出典:ウィキメディア・コモンズ


②「狐火」きつねび


幕末から大正にかけての漢学者・大須賀筠軒(1841-1912)が著した「燄取録」の中に「狐燐」という項立てで興味深い記述がある。筠軒の稿本から門人が書写したのは明治13年(1880)のことだという。

「磐城之地/往々見狐燐/而谷川瀬好間二村/為尤多矣/其始一燐燃起/次第現出/其色青而白/(中略)而土人慣見/不以為奇(以下略)」

簡単に言えば以下のようになるだろう。

「磐城の地では往々にして狐火を見る。谷川瀬村と好間村が最も多い。初めは一つだが次第に増える。その色は青くて白い。しかし地元の人はこれに慣れていて、奇妙なものとも思わない」

本書にはこの後、筠軒が実見した「狐火」の様子が報告されている。

作者不詳『化け物尽くし絵巻』より「狐火」
出典:ウィキメディア・コモンズ


③「松焚き」まつたき


ジャンガラの甚句に「一度来てみな/磐城の平/まちは火の海/人の波」というものがある。大須賀筠軒「磐城誌料歳時民俗記」によれば、当時の盆中、平の町家はそれぞれ20丁から30丁、裕福な家では100丁もの燈籠を吊ったそうである。更に迎え火、送り火は家の間口に合わせて1ケ所から4ケ所、松の木を井形に組みこれを焚いた。空は昼のように明るかったというから、まさに「火の海」だったのだろう。多くの見物客で賑わったそうだが、残念ながらこの「松焚き」は、道路の舗装により昭和9年に禁止されてしまった。

大須賀筠軒「磐城誌料歳時民俗記」より 該当部分抜粋



以上のように、海上からは毎夜「龍燈」が上り、それを見るための見物客が遠方から押し寄せ、「狐火」は日常的に見えるため地元の人は誰も不思議に思わず、盆には町中が「火の海」と化し、そこへ近在から多くのジャンガラが詰めかけ、それぞれの輪に群衆が加わって熱狂的な踊りが繰り広げられた。それが磐城の国なのである。そして、その輪の中で太鼓を打ち鳴らしているのは(私個人の考えだが)他でもない「人魂」という「火」なのだ。


おわりに


余談であるが、この地から「燃える石」つまり石炭が発見され、1870年代から1960年代まで本州最大の炭田として大いに発展した。さらに言えばその後、「磐城」の北端に原子力という不思議な火が灯っていく。どこまでも「火」に縁のある国である。(了)