「専門家」など、いない

 果たして、世の中の人のイメージする「専門家」とはどのようなものなのか?少なくとも現代における「ある分野を専門とする人」の実像とはかけ離れているのではないか?
 分業化が進み、自発的隷従状態にある人間が多数を占める世の中で、その分野の全てを知り、何事にも忖度せず「知」のみから判断することが可能な「専門家」など存在するはずがない。こんなことは各々が我が身を振り返り、少し考えてみればわかる事のはずだ。
 人々は「専門家」という存在に対する認識を改めるべきだ。あなたたちがイメージするような「専門家」は近代には存在できたかもしれない。しかし、少なくとも現代には存在しない、存在することはできない、と。
 
 20世紀に入ってから、おそらくは2つの世界大戦の影響により、科学的研究は大集団で行うものとなり、かつ国家政策の一部となった。個人が独力で一から企画し、全てを把握することが可能な規模ではなくなったのだ。そして、「国家戦略」という外部からの意思の影響から逃れられなくなっている点で、もはや自律性も失っているのだ。
 ゆえに我こそは「専門家」と、世の中に発信している人間のほとんどは、ただの「井の中の蛙」である。さらに言うと、根拠のない全能感を捨てきれない、ただの未熟者である。
 井の中から出ることができているのは、自身の存在の公的な意味を知ろうと足掻き、四面楚歌にさらされながら己の義憤を保ち続けている一部の少数者のみだ。しかし、彼らですら「ある分野を専門とする人」に過ぎない。
 
 「知」を統合することが必要だ。それは我々が自身で行うしかない。自身の得た統合知を世に示そうと懸命に伝えてくれる方もいる。しかし、最後は自身で統合し、それをもとに判断しなければならない。そして、判断の責任は我々自身が背負わなければならない。
 とはいえ、背負えない人を見捨ててはいけない。自身が背負える人間であり得えたことの幸運に感謝し、手助けをしなければならない。
 つまり、大人はきちんと「大人」ならなければならない。自身の判断を依存できる「専門家」など、いない、と認識することから始めなければならない。

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