「世間」と「私」しかいない国
仮に誰か偉い人が「もうやめましょうよ」と、言ったところで、人々の感染者差別意識や過剰な清潔観念は消えない。なぜなら、隠されていた「私」が表在化しただけなのだから。
人々に植え付けられた感染に対する恐れが、「私」を堂々と解放する免罪符になってしまった。これを手に入れた人々は嬉々として差別者となり、感染対策という宗教を信仰するようになった。
それが人道に反するか否か、根拠が有るか無いかなど、なんら省みる気はなかった。自分が権威と感じている者から、薄っぺらい言葉で肯定されれば、それで許されると判断していた。
しかも、「世間」ではみんなやってるし。従ってるし。赤信号をみんなで渡れば、怖くないのだから。
阿部勤也氏が数十年前に指摘されていたことは、残念ながら現代においても正しいままであった。societyもindividualも、この国には概念として浸透していなかった。「社会」や「個人」という訳語をあてはめただけで、我が物にしていると思い込んでいたに過ぎなかった。ほんの一握りの人々を除いては、「世間」と「私」しかなかった。普段はsocietyやindividualの示す概念を理解しているかのような言動を見せていた人々の多くが、実は「世間」と「私」が判断基準だったことを次々と露呈した。
そんな悲惨な事実を突きつけられた3年だった。
