高学歴親ほど、受験戦争から降りられない
教育の話をしていると、日本では
「北欧はいいらしい」
「アメリカは自由らしい」
と長らく言われてきました。
でも、ここ数年で北欧の学力低下があまりに顕著であったり、アメリカではトランプが政権を握った結果トップ大学を含めたアメリカ留学そのものへの敬遠なども起こっています。
では、ひるがえってご近所さんのアジアではどうでしょうか。
世界で受験が過酷だと言われてきたうちの二つの国。
シンガポールと中国。
この二つが、ここ数年、国をあげて自国の受験制度を壊しにかかっていました。
今日はその話を、事実ベース&私や現在英国留学中の息子自身の体験談に沿って書きます。
「じゃあ我が家はどうすれば良いだろう?」
という家庭内での会話のお供になれば、と今回執筆してみました。
シンガポール:ガチガチだった物差しを緩める
シンガポールには、有名なPSLE(Primary School Leaving Examination)という試験があります。
小学6年生、日本でいう12歳が受ける、たった一度の全国試験です。
この一発の点数で、進む中学がほぼ決まる。
大学へ行けるかどうかも、ほぼ決まる。
(厳密にはそこまで決まらないとは言われていますが、実質的には、大学進学に向けた指導をしてもらえる中学・高校に進学できるかどうかのほとんどが決まると言われています)
この時点で多くの競争心に溢れる親が
「うちの子は出来の良い子か、それとも失敗作か」
という判断をくだします。
私の感覚からすると自分のお腹から生まれた子どもに対して
「失敗作」だなんて、そんな悲しい言葉を使うのは、noteで書いているだけでもちょっと涙が出ちゃうくらい抵抗があります。
が、実際にシンガポールに住んでいると、国のマジョリティを占める中華系シンガポーリアンを中心に、そうした厳しい言葉を自らの子どもに投げかけているのをよく聞きます。
シンガポールは、あの狭い国土、天然資源ゼロの国土で生き残っていくために、シンガポールの一番の資産は「頭脳」だと、60年前の建国当時から政府が発信し、国民の多くがそう信じています。
だから、子どもに勉強をさせ、より良い成績を取り、より良い大学へ行き、グローバルビジネスの第一線で働ける人材になる、というのは、親としての強烈なまでの願いなのです。
そのため、親は子どもに甘い顔を一切見せません。
シンガポール在住時代、日曜の朝、小学生の息子とカフェでモーニングをしていると、息子よりあきらかに小さい幼稚園生くらいの子が、分厚い勉強ドリルを前に、お母さんの猛烈な叱りに泣きながら勉強している子を よく見かけていました。
なにしろ人生の分岐が、11歳や12歳の一日に凝縮されている、と言っても過言ではないのですから、無理もないといえば無理もないのかもしれません。
私はシンガポールに住んでいた間、この試験にまつわる悲しい話を、一度ならず耳にしました。
このPSLEの受験でうまくいかなかった子が、自ら命を絶ってしまった、という類の話です。
12歳の子が、その時点の自分の学力に悲観して自分の命を絶つなんて、悲しすぎて涙なしには語れません。
そんな国、シンガポールがいま、方向を変えています。
2019年、学校の成績表から「学年順位」「クラス順位」の記載をやめたのです。
教育大臣は、こう言いました。
「学びは競争ではなく、生涯をかけて身につける自己鍛錬なのだ」と。
そして
2021年には、PSLEの採点方法を変え、1点刻みで細かく序列をつける方式をやめました。
2023年までに、小学校から大学準備段階まで、中間試験そのものを廃止。
2024年、長らく子どもを「エクスプレス」「ノーマル」といった学力コースに振り分けてきた streaming(能力別編成)を全廃し、科目ごとに難易度を選べる仕組みへ切り替えました。
物差しそのものを緩めて序列を見えにくくする。
これがシンガポールが選んだ道でした。
中国:塾を取り上げる
ほぼ時を同じくして、中国はまた違う手を打ちました。
この打ち手には名前までついています。
2021年に行われた いわゆる「双減(そうげん)」政策です。
義務教育段階の子ども向けの、営利目的の学習塾を、事実上まるごと禁止したのです。
実際、冗談かと思うほどの凄まじい規模の話だったそうです。
中国の巨大な学習塾産業は、数ヶ月で壊滅状態に。
とある推計では、わずか4ヶ月で300万件を超える求人が消えたとされます。国家が、ひとつの巨大産業を上から取り上げた、というエピソード。
実際の効果はどうだったのでしょうか??
もちろん、ゼロではありませんでした。子どもの睡眠はわずかに改善し、不安の訴えも下がり、親の満足度も上がったという調査があります。
塾代が家計から消えたことで、もう一人産もうという計算が働いたのか、出生率の予測が数パーセント上向いた、という研究まであるほどです。
でも、ここからが大事なポイントです。
二つの実験は、まったく同じ壁にぶつかっっている
物差しを緩めたシンガポール。塾という産業を取り上げた中国。
やり方は違うというのに、実は両方とも同じ壁の前で立ち止まっているように私は思えてならないのです。
競争が、ほぼまったく消えていないのです。
中国では、塾がモグリになりました。
禁じられた分、家庭教師が高額化して、こっそり教える形に変わっただけでした。
良い高校・良い大学への入り口が狭いままなのに、塾という産業を減らしても、そこを目指す競争は、形を変えて必ず戻ってきます。
シンガポールも結果はほぼ同じでした。中間試験を減らしても、PSLEという関門が残っているかぎり、そしてPSLEの結果が将来の大学受験に大きく響く仕組みが残っている以上、親は安心できない。学校の試験が減ったぶんの時間が、民間の塾通いに費やされるようになっただけ、とすらも言われます。
ここに、教育のいちばん厄介な構造があるのではないでしょうか。
学歴というのは、それ自体に価値があるというより、「他の子より上にいる」という相対的な位置に価値が出るものです。
経済学では、順位で価値が決まるこの種のものを 「positional な財」などと呼んでいます。
順位で決まるものは、全員が同時に同じものを手に入れることができません。誰かが上がれば、誰かが下がる。
だから結局多くの家庭が、少しでも上を目指して過剰に投資してしまう。そして誰も、自分だけ先に降りることができないのです。
国家が試験をなくしても、塾という産業を根こそぎ禁じても、席の数が限られているかぎり、この構造だけは残ってしまう。
シンガポールと中国は、それを国家規模で証明してしまったのです。
シンガポールが学校から中間試験を取り上げたとき、親は空いた時間に、塾を足しました。
中国が塾を禁じたとき、親はもぐりの家庭教師を探しました。
つまり、競争の本体は、制度の側というより親の側にあったと言えるのです。
学校がやめても、親がやめない。
国家が塾を取り上げても、親が別の形の塾を探す。
高学歴親ほど、この競争から降りられない
高学歴の親ほど、この話は他人事ではないはずです。
だって、いちばんこの仕組みを肌で理解しているのは、自分自身がこの競争を勝ち抜いてきた人たちだからです。
降りられないのは時代遅れだからでもないし、もちろん見栄っ張りだからなどということでもありません。この順位ゲームの厳しさと、それを勝ち抜いた時の有効性を、身をもって知っているからこそ、降りられないのです。
私のnoteを読んでくださっている方の多くが高学歴層なのではないかと思うのですが、
競争を勝ち抜いてきたからこそ得られたもの。
高学歴だからこそ得られたもの。
それらをひとつも挙げられない人など、いないはずです。
競争を「悪」だと言い切れるのか
この記事を書いた理由は、競争なんてやめてしまえ、という結論なんかではありません。
そんな単純には思ってはいません。
まもなく17歳になる息子は先週スイスのチューリッヒで行われた物理の国際大会(IYPT)に、英国代表の一員として参加しました。
世界35カ国から集まった各国代表のチームを眺めていて、あることに気づいたそうです。多くの国の代表チームにも、中華系の子が、当たり前のように主力として入っている、と。
あの過酷な競争を、十数億人のなかで勝ち抜いてきた子どもたちの頭脳は、正直、とんでもないのです。
特に優勝争いをするシンガポール・中国・韓国などは、もうそもそもレベルが違う、別次元だと話していました。
これらのトップ国の代表生徒には、金融関連の企業から巨大なスポンサーがついていたり、国内トップ大学への進学が約束されていたり、一流大学との共同研究が年間を通して提供されていたり、、、とまさに未来へ続く道が幾重にも準備されています。
だからこそ、この手の話は、競争が良いとか悪いとか、一元的な話では終わらないのです。
過酷な競争は、シンガポールで悲しい話を生み、同時に、世界の舞台で堂々と戦える子を育ててもいる。
同じひとつの仕組みが、悲劇とトロフィーの両方を生み出しているのです。
日本は今こそこの論点を真剣に考えるべき
ここまで、シンガポールと中国の話をしてきました。
でも、いちばん考えさせられるのは、もしかしたら日本なのかもしれないと私は思っています。
日本では、スポーツ推薦があったり、音楽大学や芸術大学も尊敬される進路として存在しています。
シンガポールのように学力を苦に子どもが命を絶つほどの過酷さも、塾を国が丸ごと禁じるほどのカオティックな騒ぎも表向きにはありません。
でも、日本にも「18歳のときの一瞬の成績を、その人の値打ちとして、一生測り続ける」という非常に悪い習慣がまだまだ社会のあちこちに残っています。
ものすごーく雑に捉えた表現ですが
“学士でどの大学に受かったか”…それはつまり、
“正解に、どれだけ速く、正確に辿り着けるか”を、18歳の、とある一日に測ったスコアという場合も多くあります。(色々反論はあると思いますがw)
日本ではそのスコアを、就職でも、昇進でも、その後の活躍を語るときでさえ、多くの大人が、いまだに物差しにしています。
もちろん、入り口は変わってきました。いまや大学入学者の半数以上が、一般入試ではなく推薦型やAO入試などと呼ばれる総合型で入る時代です。
でも、その入り口がどれだけ多様になっても、大人の側の評価のまなざしのほうは、あまり変わっていません。
数字を見ると、それがはっきりします。
人口100万人あたりの博士号取得者は、日本はおよそ123人。
ドイツ330人、英国340人、米国286人、韓国344人と並べると、半分にも届きません。
しかも日本は、主要国のなかで唯一、博士号取得数が増えるどころか減り続けている国です。2003年からの二十年で、およそ2割も減りました。
社会人になってからの学び直しは、もっと極端です。
過去1年間に正規の教育や訓練を受けた成人の割合は、日本はおよそ1%。OECDのなかで最下位です。
OECD平均は8%、アメリカや北欧などは12%を超えています。
理由のひとつは、日本の会社が、若いうちに一括で採用して社内で育てる、という仕組みを長く続けてきたことにあります。
だから、いったん22歳で入ってしまえば、そのあと大学院に行こうが、留学しようが、新しい学位を取ろうが、評価にはあまり跳ね返らない。
むしろ「今さら何を?」と不思議そうに見られることさえある。
大学院での学びはおろか、そもそも読書をしている社会人すらも極端に少ないように思うのも私だけではないでしょう。
「学びは競争ではなく、生涯をかけた自己鍛錬だ」。
シンガポールの大臣のあの言葉に、日本人はきっと頭ではうなずけるでしょう。
でも実際にやっている人は少数。
日本では悲しいことに、多くの人が18歳を最後に学ぶことをやめてしまう。大人になってからも学び続ける人は極端にマイノリティなのです。
イノベーションが次々に生まれる場所は、たいてい、大人が何度でも学校に戻り、専門を付け替えて、新しい知識を抱えて現場に戻ってくる場所だといわれています。
学びが18歳で終わる国と、一生さまざまな形・場所で続いていく国。どちらから新しいイノベーションが生まれ、新しい産業が生まれやすいかは、データをじっくり眺めるまでもないのかもしれません。
だから、この問いは、私たちの手に残される
競争をなくすべきか、残すべきか。この問いには、たぶん正解がありません。国家でさえ、答えを出せずに壁の前で立ち止まっているのですものね。。
世界を生き抜く子を育てるというのは、たぶん、競争させるかさせないか、という二択の話ではないのでしょう。
この子にはどんな価値観を持ってもらい、どんな力をつけさせるのか。
正解のないこの世界で、子どもと何度も何度も対話しながら、一緒にトライしていく、そんなことが大事な気がします。
そしてもうひとつ。18歳を、ゴールにするのか、スタートラインにするのか。これも、私たちが引く線のひとつです。子どもにそれを伝えるいちばん確かな方法は、たぶん、親自身が大人になっても学び続けている背中を、見せることなのだと思います。
多読派を自認する私自身も、常時20冊以上の本を同時進行で読み、誰かにおすすめされた本は、その場で即座にKindle購入!を鉄則にしています。(往々にして読み終えずに次に興味が移ってしまうのも悩みの種ですがw)
また、フルタイムの大学院には通えていなくても、大学が提供するショートタームのプログラムをあれこれ受けてみて、自分の視野を深め広げ続ける取り組みだけはやめられません。
そして、良い機会なので娘や息子の前でわざと
「さ〜てママは仕事終わったから勉強しよ〜っと!」
と、言ってみせたりもしています笑
ということで今日は、二つの受験大国の壮大な実験が、まわりまわって自分自身に突き返してきた問いを、記事にしてみました。
皆さんなら、どこに線を引きますか??
今日も最後までお読みいただきありがとうございました!
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