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この一枚と、ジャズの旅。第1回:ビル・エバンス 『From Left to Right』1971年

本日から新しいシリーズ「この一枚と、ジャズの旅。」をスタートします。ただ聴いて楽しみたいだけではない。このアルバムと一緒に人生という旅を歩んでいく、という一生モノの作品の紹介です。不定期連載ですが、ネタは沢山ありますのでお楽しみに。

初回はビル・エバンス Bill Evansのアルバム "From Left to Right"(1969~1970年録音/1971年発表:ジャケット表記は1970年)です。彼のキャリアの中でも、話題に上ることは少ないものの、重要な意味を持つ作品です。しばしば語られるように、本作は彼が初めてフェンダー・ローズを本格的に導入したアルバムですが、その価値は「エレピを弾いた」という事実そのものにはありません。むしろここに記録されているのは、時代の変化の中で、エヴァンスが美しい音楽のありかたを確かめようとした瞬間です。

私はこの作品を長年日本盤で聴いてきましたが、一昨年米盤に買い換えました。エディションは気にしていませんでしたが、ネットで調べたところrimにSunset Boulevardが印刷されていないので、1970年プレスのオリジナルのようです。音質は日本盤も米盤に劣らず美しく再現していたと思いますが、米盤はフェンダーローズの音が少し前に出てくる印象を持ちました。

フェンダー・ローズ導入の背景には、流行への迎合とはまったく異なる、彼自身の能動的な選択がありました。エヴァンスはこの楽器の開発者であるHarold Rhodes氏に自ら連絡を取り、新作アルバムで使用したいと直接申し出ています。もともと彼は、生涯を通じてアコースティック・ピアノを自らの本分と考えていました。フェンダー・ローズは決して主役の交代ではなく、「もう一つの声(alternate voice)」として、表現の幅を少し広げるための存在だったのです。

アルバム・コンセプトも、その慎重さを雄弁に物語っています。スタジオ内で左側にアコースティック・ピアノ、右側にフェンダー・ローズを配置し、それらを文字通り“From Left to Right”で弾き分けるという構想。これは変化や転換ではなく、連続した思考の中での視点の移動を、そのまま音像として提示する試みでした。エヴァンスは、新しい音色を通して自分の音楽を作り替えようとしたのではなく、そこでなお自分の和声感覚や旋律観が成立するのかを確かめていたように聴こえます。

編曲と指揮を務めたのはマイケル・レナード Michael Leonard。オーケストラを伴う洗練されたアレンジは、当時のイージーリスニング寄りの質感を備えていますが、そこに甘さや安易さはありません。ストリングスは空間を満たしながらも、エヴァンスの試みを形骸化させることはせず、彼の内省的な語りを静かに支える役割に徹しています。

読みにくいかも知れませんが、ジャケット裏面のライナーノートとしてHarold RhodesやMichael Leonardからの賛辞、そして後期のエヴァンスを支えたマネージャー、ヘレン・キーンからMichael LeonardとBillとの出会いの経緯やMichaelへの感謝の言葉が最後に添えられています。

選曲もまた、このアルバムの美意識を明確に示しています。ミシェル・ルグラン Michel Legrand作曲の『What Are You Doing the Rest of Your Life?』は、映画『ハッピー・エンド/幸せの彼方に』(1969年)の主題歌として発表されたばかりの新曲でした。エヴァンスはこの旋律の美しさと複雑な和声に強く惹かれ、この録音をきっかけに、後年のトリオでも重要なレパートリーとして繰り返し演奏するようになります。流行曲を取り上げながらも、その扱いは常に慎重で、旋律そのものを慈しむ姿勢が崩れることはありません。

ブラジル音楽から選ばれた『The Dolphin』は、タンバ・トリオのリーダーであるルイス・エサ Luiz Eçaの作品です。1960年代後半、ジャズ界ではボッサ・ノヴァやブラジル音楽が自然に吸収されていきましたが、エヴァンスはそこにリズムの目新しさではなく、旋律の透明度を見ていました。アコースティック・ピアノとフェンダー・ローズを使い分けることで、水中を滑るイルカのような浮遊感が描き出され、このアルバムの音世界を象徴する一曲となっています。

ここで時間を少しだけ巻き戻し、1969年、ヘルシンキで演奏された『Emily』に目を向けてみたいと思います。この演奏は、フィンランドの作曲家イルッカ・クウシスト Ilkka Kuusisto邸で行われたプライベートな記録で、1969年10月下旬から1970年にかけての欧州ツアー中のものとされています。そして重要なのは、『From Left to Right』の最初のレコーディング・セッションが、まさにその時期である1969年10月14日にサンフランシスコで始まっているという事実です。ヘルシンキで『Emily』を弾いていたその時、エヴァンスの頭の中にはすでに、新作の具体的な構想が存在していました。

『Emily』はアルバムには収録されていませんが、この曲と『From Left to Right』は深い美意識を共有しています。『Emily』を書いたジョニー・マンデル Johnny Mandelは映画音楽の作曲家であり、エヴァンスは映画音楽が持つ旋律美を、新作で取り上げた『What Are You Doing the Rest of Your Life?』と同じ系譜として捉えていました。ワルツの揺らぎ、旋律の線を壊さずに陰影を与える和声の扱い、そして音数を抑えた語り口。ヘルシンキでの内省的なタッチは、そのまま『From Left to Right』で聴ける透明感のある演奏へと直結しています。

1970年 ビル・エヴァンス・トリオ『エミリー』演奏中の風景 イルッカ・クウシスト邸にて

さらに見逃せないのが、リズム・セクションの共通性です。ヘルシンキで『Emily』を演奏しているのは、ベースにエディ・ゴメス Eddie Gomezドラムにマーティ・モレル Marty Morellという黄金期のトリオ。そのまったく同じメンバーが、『From Left to Right』のリズム・セクションとしても参加しています。欧州を巡りながらトリオでスタンダードを洗練させ、その一方でスタジオではフェンダー・ローズを用いた新しい試みを録音していた――この並行した活動は、エヴァンスのキャリアにおける最も創造的で、多忙な時期を象徴しています。

こうして並べてみると、『Emily』と『From Left to Right』の関係は、単なる前後関係ではありません。ライヴで磨かれていた叙情性が、スタジオで別の楽曲と出会い、形を変えて定着した。その連続した時間の流れが、私たちの前に作品として残されています。

『From Left to Right』でエヴァンスが行っているのは、その時代に生まれた、最も美しいメロディを持つ曲に身を委ねることで、自分の音楽がどう姿を変えるかを確かめる行為だったのではないでしょうか。音色が変わり、編成が変わっても、旋律に向かう眼差しだけは変わらない。その確かさこそ『From Left to Right』が今でも聴き継がれている理由だと思います。

ヘルシンキで演奏された『Emily』は、そのことを私たちにそっと思い出させてくれる、もう一つの入口なのです。

さて、『From Left to Right』に戻り、私がアルバムの中でもとりわけ好きな曲『Soiree』で記事を締めくくりたいと思います。



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