Cine Bossaに関するメモ #16 想像のスクリーンに流れるボッサ・ノヴァ:ノラ・オルランディ『Pan de Azucar』
1970年に発表された『Pan de Azucar』は、イタリアの作曲家・歌手 ノラ・オルランディ Nora Orlandi が残した、幻想的なラウンジ・ボッサの小品です。
この曲は、ドラマーのフランコ・トナーニとの共同プロジェクトによるアルバム『Sfere Luminose』に収録されています。イタリアのライブラリー音楽が最も豊かな創造性を見せていた1970年前後、その独特のスタジオ文化の中から生まれた作品です。
イタリアのライブラリー音楽とは、映画やテレビ番組、ドキュメンタリーなどのために制作された“用途音楽”のことを指します。しかしその内容は決して単なるBGMではありません。
1960年代後半から70年代にかけて、作曲家たちはジャズ、ボッサ・ノヴァ、ラウンジ、サイケデリック、クラシックなどの要素を自由に融合させ、映画音楽にも匹敵する豊かなサウンドを生み出しました。
その中で生まれたのが、この『Pan de Azucar』です。
曲が始まると、柔らかなボサノヴァのリズムが静かに流れ出します。
オルガンやギターが淡い色彩を重ね、その上をノラ・オルランディの声が漂うように浮かび上がります。歌詞はなく、スキャットのような声が楽器の一部のように溶け込んでいきます。
まるで映画のワンシーンのような音楽です。
具体的なストーリーが語られるわけではありません。しかし、南国の海辺や夕暮れの街並みのような風景が、ゆっくりと立ち上がってくるのを感じます。
タイトルの『Pan de Azucar』はスペイン語で「砂糖パン」を意味し、ブラジル・リオデジャネイロの名所であるシュガーローフ(ポン・デ・アスーカル)を連想させます。ボッサ・ノヴァのリズムとこのタイトルを合わせて考えると、この曲が描いているのは、イタリア人の想像力の中にある“南米の風景”なのかもしれません。
ノラ・オルランディは1933年、イタリア・ヴォゲーラに生まれました。幼い頃からピアノとヴァイオリンを学び、クラシックの教育を受けた後、作曲家・歌手として活動を始めます。
1960年代には映画音楽の世界に進出し、数多くのイタリア映画の音楽を手がけました。特にジャッロ映画や西部劇などのジャンル映画で知られ、女性作曲家としては珍しく、当時の映画音楽界で確かな存在感を示した人物でもあります。
彼女はまた、作曲だけでなく歌手としても活躍しました。自身の声を楽器のように使ったスキャットやコーラスを作品に取り入れることが多く、これが独特の幻想的な雰囲気を生み出しています。
代表的な作品には、ジャッロ映画*『Lo strano vizio della Signora Wardh(1971)』の音楽や、数多くのテレビ作品、ライブラリー音楽のアルバムなどがあります。
また、アレッサンドロ・アレッサンドローニやエンニオ・モリコーネらが活躍したローマのスタジオ・ミュージシャン文化の中で、彼女の作品は重要な位置を占めています。
*ジャッロ映画とは、1960〜70年代のイタリアで流行したサスペンス映画の一種で、ミステリーとホラーが混ざり合った独特のジャンルです。鮮烈な映像美と音楽の存在感でも知られ、映画音楽のファンからも強い支持を集めています。
『Pan de Azucar』はわずか数分の短い曲ですが、その中には1970年代イタリアのスタジオ文化と映画音楽の感覚が凝縮されています。
音楽というより、ひとつの空気。
あるいは、まだ存在しない映画のワンシーン。
そんな幻のような時間が、この小さな楽曲の中に漂っています。
Cine Bossaの世界には、ときどきこうした不思議な作品が現れます。
南米でもブラジルでもない場所で生まれた、もうひとつのボサノヴァ。
ローマのスタジオで生まれたこの静かな音楽は、いまも想像のスクリーンをそっと照らしているのです。
アルバム『Sfere Luminose』には、もう一曲印象的な作品があります。『Giochi e luci(光の遊び)』です。タイトルの通り、この曲は光が揺れ動くような幻想的なサウンドが魅力です。軽やかなリズムの上にオルガンやギターが柔らかな色彩を重ね、そこに浮かぶコーラスや旋律が、まるで万華鏡のように音の表情を変えていきます。作曲はノラ・オルランディ、編曲は映画音楽でも活躍したロビー・ポイテヴィンとジャンカルロ・ガッツァーニ。イタリアのスタジオ文化が生んだ洗練されたサウンドが、この短い楽曲の中に凝縮されています。『Pan de Azucar』とあわせて聴くと、1970年前後のローマのスタジオで生まれた幻想的な音の風景が、さらに立体的に感じられるはずです。
