確かな私と溶ける私
仏教の「縁起」と「空」が示す、
関係が根本であるから、
すべてのものには固定的な実体がないという考え方に、
私は共感すると同時に、どうしても自分の考えとは合わない部分も感じます。
固定的な実体がないのは、そのとおりだと思います。
でも、それに代わって、
「何か」と「何か」との“関係”こそは、
流れを含んだかたちで、実体である。
私はそんなふうに考えています。
関係というものは、説明できると思える関係もあれば、どこがどう関係しているのかわからない関係もあります。
また、言葉で説明できないところにこそ、
その性質が特に表れると考えています。
言葉では表現されない微妙な感覚や感情も関係には現れると考えています。
それこそが、関係そのものの本質を示す部分だと思うのです。
私は、誰かとの関係によって私になり、
世界もまた、私との関係によって世界となる。
そうした成り立ち方は、
自分自身を外から見て、説明しようとする文脈のなかでは、
とても自然で、妥当なあり方に思えるのです。
しかし、そこには一つの問いが残ります。
この考え方は、「関係をもつ主体としての私」を
起点とした説明にはなっていないのではないかと。
では、「私」を起点に考えるとどうなるのか。
そのとき私のなかに現れるのは、
言葉にならない「思い」です。
それこそが、実体と呼ぶにふさわしいものなのではないかと感じています。
思いがあるから、関係が実体といえる。
関係が生きているから、思いがある。
これは、確かな実感をもって言えることです。
私は、この話が普遍的に通じるものであり、
至るべくして至る道に、私が達していることを信じています。
だから私は、
自分が「思える」ときに、思うこと。
誰かにも「思い」があるということを、思うこと。
そして、説明できない「思い」によって導かれていくことを、大切にしたい。
思いには、言葉がないのです。だから区別がない。
良い悪いもなければ、私と誰かもない。
その導きのなかで、
私と誰かの境界が、
私と世界の境界が、
少しずつ、溶けていくことを、私は望んでいます。
