【短編小説】『カノジョは猫である』
「妊娠したの。」
アキのその言葉に、僕はこれまで自分を照らしていた光がすべて失われた心地がした。
花曇りの日だった。乾いた風が樹間を巡ってうなりを上げる。窓から見える電線は凍えるように揺れ動き、曇天を背景に終わらぬ舞踏に狂っていた。
アキは自分のベッドに厳かに腰を下ろしていて、僕は彼女を正面に見て、その前の床にあぐらをかいていた。
二人の間には高さの低いテーブルがあった。僕たちは彼女が作ったアップルパイを一緒に食べた後だった。
一瞬、僕はからかわれているのかと思った。しかし、僕を見据えている彼女の瞳の黒さが、彼女の言葉が動かぬ事実であることを告げていた。
僕たちが恋人と言える関係になってから、一年以上が経った。
高校三年生になった。僕たちは互いに17歳だ。せめて、あと1年あれば、選択肢も多くあったのかも知れない。しかしいま、僕たちがお互いに高校生だという事実は動かしようがない。取れる選択肢はほとんどない。
僕はこれまで漠然と考えていた自分の人生設計のようなものが跡形もなく消し飛んだのを悟った。足元の地面が消え、巨大な黒い穴が現れるのを僕は想像した。僕は、もう落ちるだけだった。ならば、落ちよう。
僕はアキに向き直った。瞳が黒かった。彼女は大きな丸い目を微塵も動かすことなく、次に僕が何を言うのか見張っている。
正座するのはおかしいと思った。あぐらをかいたまま、テーブルを横にのけて、拳を床についた。時代劇に登場する、畏まった武士のような恰好になったが、かえってこの姿のほうが、僕が言葉にしようとしている内容に相応しいように思えた。
「君の人生を、全部僕のほうで承りたい。
僕は学校をやめる。朝早くから夜遅くまで働く。なんだってやる。
二人で生活できるようにするから、僕と結婚してほしい。
誰に殴られても、罵倒されても、必要な人達には僕が話をつける。」
僕がそう述べると、いやに瞳が黒い今日のアキが鼻からゆっくり息を吸う音が聞こえた。
「ほんきで、いっているの?」
ゆっくりと、静かな声だが心臓を凍らせる迫力があった。僕は自分の胸に聞いた。今、彼女に対して心にないことは述べられない。
「いま嘘は言わない。
もし僕が言葉を違えることがあれば、刺し殺してくれ。
できれば、君がいつも使っている果物ナイフがいい。」
アキの表情をうかがったが、彼女は微塵も表情を変えなかった。僕はもう、彼女の前に顔を伏せる以外に何もできることがなかった。
「うれしい……。」
彼女は呟くようにそう吐き出した。
僕が顔を上げると、彼女はゆっくり瞳を閉じた。そうして、次に目を開いたときには、その瞳には普段よりも倍の強い光が宿っていた。
「そう言ってくれるなら、あたしにも考えがある。
あとは、あたしに任せて。」
「アキ、何を考えてる?」
「嬉しかった。
あたしを見捨てない覚悟があるのなら、あたしにも覚悟がある。
あたしにも責任がある。誰が何と言おうと、この件について、責任は全部あたしが引き取る。」
僕はどんな顔をしていたのだろうか。僕の表情をじっと見て、アキは子供でもなだめるように微笑んでみせた。
「平気平気。心配しないで。全部あたしがなんとかしてあげる。」
普段のアキだった。僕は、ようやく凍った背中が溶ける感覚がした。
駅前の商業ビルからアキが身を投げたのは、翌日の深夜のことだった。
非常階段の屋上前に靴が残されていた。屋上は厳重に封鎖されていて、入れなかったものと見える。非常階段を昇りきった位置から身を投げた。
その高さは一般的なマンションに換算すれば15階に相当する高さで、アキの身体は熟れたトマトを落としたごとく、原型を留めなかった。
アキの部屋の机には、遺書があった。その宛先は複数で、両親に向けたもの、学校の友人に宛てたもの、そうしたものの中に、僕に宛てたものもあった。
僕は彼女の両親からそれを受け取って、その場で必死に文字を追った。
『子供の頃から、仲良くしてくれてありがとう。
一緒にお出かけできて、楽しかった。好きだったよ。
壊れてしまったあたしのこと、見ないでね。見てほしくないの。』
これだけか。
アキと僕の関係というのは、こんなものだったか。
あまりにあっけない内容に、胸の空洞が音を立てて広がった心地がした。僕は彼女の両親の前で、嗚咽が止まらなかった。
そこで聞かされた内容だが、彼女が両親に宛てた遺書の中に、自殺に至る心境が書かれていたという。
将来への不安、自分自身の力不足のことなどが書かれていたという。
僕が好きだったあの子は、そんな子だっただろうか。僕は、アキという女の子のことが、何もわかっていなかったのかも知れない。
僕の頭の中は思考でいっぱいになって、かえって何も考えられない状態になった。僕宛ての遺書を抱え、ともかく自宅に戻ろうとしたとき。
ふと、アキが考えていることがわかった。いつものように。
僕は自宅のポストを開けた。
あった。
宛先も差出人もない封筒だが、封はしっかりされている。
僕はそれを自室に持ち込んで、必死に封を切った。
便箋。間違いない。アキが僕に宛てたものだ。
『きっと、すぐにこっちを見つけてくれる。
あたしと結婚してくれるって、嬉しかったよ。
そう言ってくれたから、あたしがあなたの人生を引き受けます。
遺書のとおり、あたしは将来の不安で自殺した高校生。
そして、あなたはただの幼馴染。あたし達の関係を、誰も知らない。
壊れてしまったあたしの身体を、きっと誰も調べない。
これで、あなたの人生があたしに振り回されることはない。
勉強を、してね。あたしのことを思い出してしまったら、勉強して。あたしのことを忘れてしまうまで。
いい仕事をしてね。いい人をみつけてね。家族を持ってね。
あたしのことを愛してくれたように、また誰かを愛してあげてください。
あなたに愛されて、あたしは幸せだったよ。ありがとう。』
後半が涙でぐしゃぐしゃじゃないか。
平気なふりをするなら、もっと上手にしてくれないと困る。
便箋を読み終えてしまって、僕は自分の涙でろくにものも見えないまま、他のものはないのかと僕は必死に封筒の中を探った。すると、押し花で作られた栞が出てきた。
ピンク色のジャスミンだ。花言葉は「私はあなたのもの」。
アキが世を去って一月が過ぎた。
彼女が身を投げた商業施設まで、僕は頻繁に赴いていた。
その裏手に、彼女の最期の場所がある。
表通りの喧騒が、かすかに聞こえてくる。誰もが自分の今日に忙しく、ここで消えてしまった女の子のことなど、とっくに忘れてしまっている。
僕は、行くたびに一本の花を手向ける。花屋で、一本だけ手に入れる。どの花がアキの好みだろうかと考えながら。
手を合わせて、家に戻って勉強する。それが彼女の遺言だったから。
参考書には、彼女が作った栞を使う。彼女がそばにいてくれるような気がしたから。
そろそろ行こうかと立ち上がったとき。
近くの花壇がもぞもぞと動いた。
僕はぎょっとして眺めていたが、やがて植え込みをかき分けるようにして、小さな猫が現れた。
白猫。小さな猫である。まだ生まれて間もないのだろう。目は開いているようだが……。
と、その目に見られて、僕は稲妻に打たれた心地がした。
大きな丸い目で僕を見上げる様子に、僕は僕を愛してくれた女の子のことを思い出さずにいられなかった。
アキ。自らの命を捨てて、猫に身を堕としたのか。
僕は彼女を抱き上げた。今度こそ、彼女の一生に責任を持つ。
名前をつけてやらねばならない。
一番に候補に挙がる名はあるが、最終的に自ら命を絶つに至った、その名で呼ぶには気が引ける。
僕は逡巡した。再び出会えたのだと信じながら。
カノジョは猫である。
名前はまだ無い。
(完)
これまで20話公開した『カノジョは猫である』の最終話として構成しましたが、これ単体でも読めると思います。
