月光 57
美容室
優子さんが店を出た瞬間、空気が一度だけ揺れた。
まるで、何かが抜け落ちたような感覚。
けれどすぐに、六条雅彦の視線が私の背筋を這った。
蛇のような目だった。
冷たく、濡れていて、何かを巻きつけるような――そんな目。
優子さんを見送った彼はすぐこちらに視線を戻し、何事もなかったかのように話し始めた。
「皆さんもご存知かもしれませんが」
その声は、表面だけを撫でるように穏やかだった。
でも、私は知っている。
この男の言葉は、いつも何かを隠している。
柔らかさの奥に、鋭い刃が潜んでいる。
「近々警察が来るかもしれません」
「是非、協力をお願いします」
私は頷いた。
けれど、心の中では白々しいと思っていた。
彼は何かを“演じている”。
それも、完璧に。
「もし何か蒲田さんのことで気になることがある方は、私まで連絡を」
その瞬間、私の心臓がひとつ跳ねた。
そして、名指しされた。
「佐藤さん」
私は驚いた。
まるで、心の奥を覗かれたようだった。
この男は、異常に感が鋭い。
いや、鋭いというより、侵入してくるようだ。
オーナーが目配せを交わした時も、彼の目は私の皮膚の下を這っていた。
蛇のように、静かに、冷たく。
「佐藤さん、しばらく蒲田さんはシフトから外した状態でお願いします」
私は「分かりました」と答えた。
それで終わると思った。
でも、彼は続けた。
「ところで、蒲田さんに恋人はいませんでしたか?」
「例えば――噂のような話とか」
その言葉は、口止めだった。
私の口を塞ぐための、鋭く冷たい釘。
この美容室の人間なら、誰もが薄々感じていた。
でも、この聞き方をされたら、「聞いたことはありません」と答えるしかなかった。
「他の方は?」
私が店長として「知りません」と答えたことで、他のスタッフたちは沈黙した。
空気が、重く、濁った。
「では、何かありましたら必ず私に連絡をお願いします」
そう言って彼は微笑んだ。
その笑みは、皮膚の下に冷たい指を差し込んでくるような感覚だった。
まるで、私たちの“嘘”を楽しんでいるかのように。
その瞬間、私は確信した。
この男は、ただの人間ではない。
彼の言葉は、蛇の舌のように、
真実を撫でて、毒を残していく。
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