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【東方幻想物語】白銀の中で君と 最終話

最終話;冬の終わり――その先の未来へと


意識が、深い底からゆっくりと浮かび上がるように戻ってきた。
重たい瞼を押し上げると、最初に視界へと映り込んできたのは、どこまでも白く広がる天井だった。無機質で、温度を感じさせないその色は、夢の名残を一瞬で払い落とすには十分で、ここが現実であることを、否応なく突きつけてくる。

身体はひどく鈍い。
わずかに首を動かしただけで、頭の奥に鈍痛が走る。
「……っ」

思わず顔をしかめ、震える手をゆっくりと持ち上げる。
指先が触れたのは、固く巻かれた包帯だった。軽く触れただけのはずなのに、じんわりとした痛みが遅れて広がり、そこに確かな現実の重さを感じさせる。

――ここは、どこだ。
そう考えようとした瞬間、別の記憶が脳裏をよぎった。

白い雪。
静かな空気。
そして、あの声。

「……夢、だったのか?」
掠れた声が、静かな病室に落ちる。
けれど、その問いに答えるものはいない。ただ機械の微かな作動音だけが、規則正しく空間を満たしていた。

その静寂を破るように、扉がそっと開いた。
わずかな隙間から差し込む光が床を細く照らし、その向こうから看護師らしき女性が顔を覗かせる。日常の確認の延長のような動きで、その視線は自然とベッドの上へと向けられた。

そして――その動きが、止まる。
次の瞬間、彼女の目が大きく見開かれた。
「――ぇ、意識が戻った……!?」

思わず漏れた声は、驚きに満ちていた。
息を呑むように一歩だけ踏み出しかけるが、すぐにその足は止まる。目の前の現実を確かめるように、もう一度、ベッドの上の人物へと視線を向ける。

確かに、目が合っている。
眠り続けていたはずの患者が、今、こちらを見ている。
その事実を認識した瞬間、彼女の表情が慌ただしく引き締まった。
「すぐに先生を呼んできます!」

言葉を言い切ると同時に踵を返し、白い靴音を響かせながら廊下へと駆けていく。その音が遠ざかるにつれて、再び静けさが戻ってきた。
零は、その一連の出来事をただ目で追うことしかできなかった。


身体はまだ思うように動かず、声を出す余裕もない。ただ、目の前で起きている現実を、どこか他人事のように見送るしかなかった。
やがて、廊下の向こうから複数の足音が近づいてくる。


先ほどよりも速く、確かな足取りで。
扉が開き、先ほどの看護師と、その後ろに続く白衣の人物――医者が病室へと入ってきた。看護師は安堵したように一歩下がり、医者は落ち着いた足取りのままベッドの傍らへと歩み寄る。

そして、零の顔を確かめるように見下ろした。
一拍の静寂。
それから、静かに口を開く。

「……目覚められたのですね」
その言葉は、現実へと完全に引き戻すように、はっきりと耳に届いた。
零はわずかに視線を動かし、目の前に立つ医者の姿を捉える。白衣の輪郭が、ぼやけた視界の中でゆっくりと形を結んでいく。

「ここは……」
掠れた声でそう問うと、医者は小さく頷いた。
「病院です。あなたは高層ビルの屋上から転落し、意識不明の状態で搬送されました」

淡々とした口調だったが、その一言一言には確かな重みがあった。
「頭部を中心に強い衝撃を受けており、一時は非常に危険な状態でした。ですが、処置が間に合い、現在は容体も安定しています」

静かに続けられる説明を聞きながら、零の中で何かがゆっくりと繋がっていく。
高層ビル。
落下。
血。

断片的に見ていた光景が、現実として一つに結びついていく。
「……そう、ですか」
信じがたいはずなのに、不思議と納得できる部分もあった。


あれほど鮮明に、あの世界を見ていたのだから。
医者は一度言葉を区切り、少しだけ表情を緩める。
「まずは、意識が戻られて何よりです」

そのあと、ほんのわずかに間を置いてから、静かに問いかけた。
「差し支えなければ、お聞かせいただけますか。
なぜ、あのような行動に至ったのかを」

零はその問いに、すぐには答えなかった。
視線をわずかに逸らし、言葉を探すように呼吸を整える。
「……この世が、あまりにも残酷に思えたんです。何をしても上手くいかなくて、全部が空回りしているようで……どこにいても、自分の居場所がないような気がして」

ようやく紡がれた声は、弱々しくも、どこか確かだった。
言葉は途切れがちだったが、それでも止まらなかった。
「それなら、いっそ終わらせてしまった方が……楽なんじゃないかって」

静かな病室の中に、その言葉だけが残る。
医者はすぐには返さなかった。
わずかに視線を落とし、考えるように沈黙を置く。

やがて、ゆっくりと顔を上げた。
「……確かに、生きていれば残酷だと感じることはあります。思い通りにいかないことも、理不尽なことも、避けられないものとして存在しています。ですが、それだけではありません。」
その声は穏やかで、否定的な言葉ではなかった。
まっすぐに、零を見る。

「どれだけ苦しい状況でも、少しずつ前を向こうとすることで、見えるものが変わってくることもあります。すぐに何かが変わるわけではありません。ですが、歩み続けることでしか、たどり着けない場所もあるのです。とにかく、前を向いて生きていくことが大切ですよ。」
静かながら、確かな重みを持った言葉だった。

その瞬間。
零の脳裏に、ある声がよぎる。
それは、遠く――もう届かないはずの場所から聞こえた声。

思わず、目を見開く。
だが次の瞬間には、その表情は元に戻っていた。
「……はい。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした」
小さく頷く。
医者はわずかに首を振る。

「謝る必要はありません。こうして目を覚まされたことが、何よりです」

それから一歩下がり、穏やかな声で続けた。
「退院までは、まだしばらくかかります。それまでは安静にしてください」
そう言い残し、医者は病室を後にする。
看護師も一言だけ優しく声を掛け、静かに扉を閉めた。

再び、部屋には静寂が戻る。
零はゆっくりと視線を横へと移した。


窓から差し込む日の光が、白いシーツの上にやわらかく広がっている。その淡い明るさは、どこか懐かしく、冷たさを帯びていたはずの記憶と、不思議と重なり合った。
その光を、ただじっと見つめる。

あの時間が夢だったのか、それとも現実だったのか。
答えはまだ分からない。
けれど――

ふと、耳の奥に残るような感覚があった。
静かな声。落ち着いた響き。少しだけ、からかうような言い方。
そして最後に聞いた、あの一言。

――さようなら。元気でね。

言葉には出さなかった名前が、胸の奥でそっと浮かび上がる。
あれがただの夢だったのだとしたら、あまりにも確かすぎる。
温もりも、視線も、交わした言葉も、すべてが消えずに残っている。
零は小さく息を吐いた。

「……さっきのは――」
誰に向けたものでもない呟きが、静かに落ちる。
それでも、確かにそこに“いた”のだと、そう思える。

その存在が、自分をここまで連れてきたのだと。
窓から差し込む光の中で、零はわずかに目を細める。

胸の奥には、まだ消えない何かがある。
それはもう、疑う必要のないものだった。


病室で目覚めてから、数日後のこと。
窓から差し込む光にもすっかり慣れ、白い天井を見上げる時間も、いつしか終わりへと近づいていた。

「それでは、最終確認を行いますね」
そう言って入ってきた医者は、これまでと変わらぬ落ち着いた様子で、いくつかの検査を手際よく進めていく。視線の動きや簡単な受け答え、身体の状態――一つ一つを丁寧に確かめながら、最後に手元の記録へと目を落とした。

短い沈黙。
やがて、顔を上げる。
「……問題ありませんね。回復も順調です。
本日をもって、退院していただいて大丈夫でしょう」

その声には、はっきりとした確信があった。
その一言に、胸の奥で何かがほどけるような感覚があった。
零はゆっくりと上体を起こし、医者の方へと向き直る。
「……そうですか」

小さく息をつき、それから静かに頭を下げた。
「最後にと言っては何ですが、私のためにここまでしてくださりありがとうござました。
本当に、お世話になりました。」

その言葉に、医者は穏やかに頷くだけだった。
それからしばらくして、手続きは滞りなく進み――
零は、病院の外へと足を踏み出した。

外の空気は、どこか静かに佇んでいた。
冷たさを残しながらも、確かに季節は移ろい始めている。
視界の端には、淡い色が揺れていた。

桜だった。
まだ満開とは言えないものの、枝のあちこちに淡い花が咲き始め、風に乗ってかすかに揺れている。その景色は、どこか現実離れした美しさを持ちながらも、確かに今この場所にあるものだった。

鳥のさえずりが、柔らかく耳に届く。
生暖かい陽光と、そよぐ風が頬を撫でる。
そのすべてが、まるで背中を押すように――


「前へ進め」と、そう語りかけているようだった。
零は、ゆっくりと息を吸う。
――もう、あの人はいない。

その事実が、静かに胸へと落ちてくる。
あまりにも突然の別れだった。
何も伝えきれないまま、何も返せないまま終わってしまったことが、どうしても引っかかる。

「……すみません」
思わず漏れた言葉は、誰に届くこともない。
それでも、すべてを受け止めてくれたあの存在のことを思い出すたび、胸の奥がじわりと痛んだ。

気づけば、胸倉を掴んでいた。
無意識に、強く。
「……本当に、これでよかったのかな、、」

自分は前を向けるのか。
あの言葉に応えられるのか。
不安が、静かに、しかし確かに込み上げてくる。

その時だった――
その声には、はっきりとした確信のものがあった。

春の暖かさの中に、ほんのわずかな冷たさが混じるような――そんな気配。
ふと、頬を撫でた風が、どこか懐かしい感触を残していく。
その一瞬の中で、言葉にならないはずのものが、胸の奥へと静かに落ちてきた。

――前を向いて。
――大丈夫、あなたならできる。
どこか遠く、それでいて確かに知っている響きだった。

零ははっと顔を上げる。
周囲には誰もいない。
ただ、風が桜の枝を揺らしているだけだった。
それでも、その声は確かにそこにあった。

「……」
胸の奥が、わずかに熱を帯びる。
なぜだろうか。
不安で満たされていたはずの感情が、少しずつ形を変えていく。

あの人の言葉だからなのか。
それとも――
理由は分からない。

けれど、はっきりとしていることが一つだけあった。
自分が、これからするべきこと。
それは――前を向くこと。
そして、あの人の想いを裏切らないこと。

零は、ゆっくりと一歩を踏み出した。
咲き始めた桜の並ぶ道を、確かに自分の足で歩いていく。

その歩みはまだ頼りない。
それでも、もう立ち止まることはなかった。



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今作はこれで完結いたしましたが、
次回作もまた作っていきますのでご理解ください!

※今作でのエンドロールは別の記事で今週中に投稿します。


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