【耽美短編】水槽の中のまどろみと、銀色の針
※本作はフィクションです。 物語の中に描かれる倫理や道徳から逸脱した行為は、あくまで創作上の表現であり、現実の犯罪や加害行為を推奨・肯定するものではありません。 虚構の世界の出来事として、お楽しみください。
世界は、白だけで構成されていた。
天井も、壁も、床も。視界に入るすべてのものが、影すらも許さないような純白で塗り潰されている。
ここには、外の世界のような雑多な色彩はない。埃っぽい空気も、車のクラクションも、誰かの怒鳴り声もない。
あるのは、完璧に濾過された無菌の空気と、一定のリズムで繰り返される医療機器の電子音だけだ。
私は、部屋の中央に設置された特殊なベッド――それはまるで、未来的な繭(まゆ)のようにも見える――の傍らに立ち、中の住人を見下ろしている。
「……今日の数値も、安定していますね」
私は独りごとのように呟き、ベッドサイドのモニターに表示されるバイタルサインを確認する。
心拍数、血圧、体温。すべてが私の設定した理想的な範囲内に収まっている。
彼女は、今日も深く、静かな眠りの中にいた。
彼女は病気ではない。どこか怪我をしているわけでもない。
ただ、外の世界の刺激が、彼女にとっては強すぎるだけなのだ。
あまりにも繊細な神経を持つ彼女は、他人の悪意や、都市の騒音、汚れた空気に触れるだけで、精神がささくれ立ち、壊れてしまう。
だから私が保護した。この完璧なシェルターの中で。
彼女は今、外界からの情報をほぼ完全に遮断されている。
目には、光を一切通さない、厚手のシルクでできた純白のアイマスク。
耳には、高性能なノイズキャンセリング機能を持ったヘッドフォンが装着され、そこからは常に、彼女の脳波を安定させるための特殊なホワイトノイズが流されている。
彼女は、何も見えず、何も聞こえない。
重力すらも軽減するウォーターベッドの揺らぎの中で、ただ、まどろみの海を漂っているのだ。
私は、彼女の頬にかかった髪の毛を、指先でそっと払った。
彼女の肌は、陶磁器のように白く、滑らかで、そして少しだけ冷たい。
私の指が触れても、彼女は反応しない。
深い意識の底に沈んでいる彼女にとって、私の接触は、水面に落ちた木の葉ほどの重みも持たないのかもしれない。
それが、たまらなく愛おしい。
外の世界にいた頃の彼女は、常に何かに怯え、傷つき、感情を波立たせていた。
その姿も美しかったが、今のこの、何者にも侵されていない、静謐な彫像のような彼女こそが、至高の芸術品のように思える。
「さて、時間ですね」
私はサイドテーブルの上の銀色のトレイに目をやった。
そこには、滅菌されたガーゼや消毒液と共に、一本の注射器と、翼状針が繋がれた点滴チューブが用意されている。
彼女は眠り続けているため、口から食事を摂ることができない。
こうして私が、必要な栄養と、そして彼女の穏やかな眠りを維持するための微量の鎮静剤を、血管に直接送り込む必要があるのだ。
私は彼女の腕をとり、袖を捲り上げた。
白く細い腕の内側に、青白い静脈が浮き上がっている。
その一本一本が、彼女の生命を維持するための繊細な回路のように見えた。
アルコール綿で皮膚を拭う。ひやりとした感触に、彼女の指先がほんのわずかに、ピクリと動いた。
ああ、反応した。
私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
視覚も聴覚も奪われた彼女にとって、この皮膚感覚だけが、世界と繋がる唯一の糸なのだ。
普段は意識の底に沈んでいるその感覚が、私の与える刺激によって、一瞬だけ浮上してくる。
その儚い反応を独占できる喜び。
私は慎重に、銀色の針先を彼女の静脈に近づけた。
針が皮膚を突き破る、プツリ、という微かな感触が指先に伝わる。
彼女の眉間が、アイマスクの下で微かに寄った気がした。
痛み。
無菌の世界に走る、唯一の鋭利な感覚。
「大丈夫ですよ。すぐに楽になりますからね」
私は聞こえていないと知りながら、優しく囁きかけた。
針を固定し、チューブを接続する。透明な液体が、ゆっくりと彼女の体内へと流れ込んでいく。
これで彼女は、今日も一日、穏やかな夢の中で過ごすことができる。
飢えることも、渇くことも、誰かに傷つけられることもなく。
点滴が終わるまでの間、私は椅子の背にもたれ、彼女の寝顔を眺めていた。
ここは巨大な水槽の中のようだ、といつも思う。
彼女は、私が大切に飼育している美しい深海魚だ。
水圧や水温を完璧に管理しなければ死んでしまう、脆く、希少な生き物。
時折、私は衝動に駆られることがある。
今、彼女のアイマスクを外したら、どうなるだろうか。
ヘッドフォンを外し、私の声を直接聞かせたら。
突然の光と音の洪水の中で、彼女はどんな風に怯え、混乱し、私に助けを求めるだろうか。
その取り乱した姿を見たいというサディスティックな欲望が、頭をもたげる。
だが、私はそれを実行しない。
なぜなら、この完璧な平穏を壊すことは、管理者である私の美学に反するからだ。
彼女は、この白い世界の中で、永遠にまどろみ続けていなければならない。
ピー、ピー、ピー。
電子音が鳴り、点滴の終了を告げた。
私は現実に戻り、手際よく針を抜いて止血した。
白い腕に残った小さな赤い点は、雪原に落ちた一滴の血のように鮮烈だった。
私は最後に、彼女のヘッドフォンの設定を少しだけ調整した。
ホワイトノイズの音量を、ごくわずかに上げる。
これで、彼女はさらに深い意識の層へと沈んでいくだろう。
「おやすみなさい。私の美しい標本」
私は彼女の冷たい額に口づけを落とした。
彼女は何も答えない。
ただ、規則正しい呼吸を繰り返し、白い繭の中で、世界から切り離された完璧な時間を生きている。
私は部屋の照明を少しだけ落とし、静かに退室した。
背後で重い防音扉が閉まる音が、完璧な世界と不完全な世界を隔てる断絶の音のように響いた。
